「絶対者を仰ぐ月の宗教」対「自身が輝く太陽の仏法」

●*森中─正法・像法は、なぜ「月の仏法」で充分だったのでしょうか。
*名誉会長─充分だったと断定できるかどうかは難しい問題です。とはいえ、「月の仏法」すなわち釈尊の仏法にそれなりの有効性があったことは確かでしょう。
釈尊滅後における現実の仏法流布を見ると、実大乗の法華経が広く尊崇される以前に、爾前(にぜん)・権教が重用された。
*斉藤─教法流布の先後があったわけですね。爾前・権教は、いわゆる小乗と権大乗に大別できます。
あえて単純化をおそれずにいえば、このうち主として正法時代にインドで隆盛した小乗の諸派は、厳格な戒律を遵守し、自己を陶冶(とうや)する修行を重んじました。いわば「自力」重視です。
仏教誕生同時、それ以前からインド社会で精神的支柱とされていたバラモン教が形骸化し、世襲的聖職者による儀礼を偏重し、内面の陶冶をなおざりにしていました。自力重視は、それへの強烈な“意義申し立て”の面があったといえるでしょう。
*名誉会長─「生まれ」ではなく「行い」によって人間の尊厳は決まる──『スッタニパータ』など最古に編まれた経典を見れば、釈尊自身がこう主張している。
自力重視は元来、一人の人間としての振る舞いに注目することであり、極めて人間主義的なものであったといえるでしょう。
*斉藤─しかしながら、やがて、その自力重視が変調を来たします。厳格な修行の重視が、出家者偏重さらには在家者蔑視までも生み出してしまったのです。
在家の人は、今世では出家者に供養をして善根を積み、その功徳によって来世にようやく出家して仏道修行を行うことができる──このような差別的な考え方も生まれました。
*名誉会長─そのような弊害に対抗して、釈尊の掲げた人間主義の復興を求めて、大乗仏教が興起したのだね。
大部の大乗経典の一つ『大般若経』には、常啼(じょうたい)〈サダープラルディタ、常悲(じょうひ)とも〉菩薩のエピソードが説かれている。
常啼菩薩は、その名の通り、常に啼(な)いていた菩薩です。
なぜ啼いていたのか?──それは、仏の存在しない世で、経典や真の聖者も存在せず、社会全体が正義に背き、悪に染まっていることを悲しんだからです。そして、人々を教え導き救う法を求めていたからです。
その求道心に応じて空中から声がして、東方にいる法湧(ほうゆ)〈ダルモードガタ、法来(ほうらい)とも〉菩薩に教えを請え、と教えます。常啼菩薩は、法湧菩薩を探し求めるとともに、自分の身を売って供養の品を調達しようとさえします。
そして、この文字通り身を賭しての求道によって、仏法を聞くことができたのです。
*森中─大聖人は、常啼菩薩が身を売ってまで法を求めたことは、雪山童子などのエピソードなどともに諸御抄で言及されています。
*名誉会長─このように大乗では「求道の心(=菩堤心)」が強調されている。ところが、それを強調するあまり、万人が実践するにはあまりにハードルが高いものとなりかねない面もあった。
したがって、理論上では万人に仏道が開かれたとはいえ、事実上は、強固な志をもち苛烈な修行を実践できる特別な存在が、菩薩として、あるいは仏として、他の多くの人々を救うということになる。
そのため、大乗の諸経典では、さまざまな超人的な能力をもつ菩薩が説かれ、また超越的な仏の荘厳な姿が描かれます。
世親(せしん)など、正法時代の末にインドに登場した菩薩たちは、人々を救う菩薩として生きようと崇高な誓願を立てていますが、現実の多くの人々は、その仏(ぶつ)・菩薩の力を頼り、すがるしかないのです。
像法時代に仏教の中心となった中国では、庶民の間には、西方浄土阿弥陀仏や兎率天(とそつてん)にいる未来仏の弥勒(みろく)菩薩や、さまざまな姿を現じて人々に現世での利益(りやく)を与える観音菩薩をはじめ、種々の仏・菩薩に祈願する信仰が広がった。
また、諸王朝の王・皇帝たちは仏教に護国の祈祷を望み、唐の時代に加持(かじ)祈祷を売り物とする密教が到来してからは、一段と盛んに行われたようだ。
*森中─正法時代のインドの「自力」偏重に対して、像法時代の中国は「他力」偏重といえるでしょうか。
*斉藤─中国でも一部には、戒律を遵守し禅定(ぜんじょう)に励むという厳格な修行を求める人々が出ます。律宗禅宗はそういう要請のなかで隆盛してくるのですが、やはり出家主義にならざるをえず、多くの民衆は聖職者にすがるしかありません。
*名誉会長─正像を通じて、またインド・中国にわたって、民衆にとっては、釈尊の仏法は、闇の外から光を与え救済してくれる教えだった。
確かに、闇のなかにいる人間にとっては、偉大な者による救済の教えは、「安心」と「希望」の光であるかもしれない。しかし、それだけでは無明の闇は破れない。外なる偉大な者にすがっている限り、自身の尊厳の自覚は生まれない。また、そのために起こる底知れぬ無力感からは決して抜け出せない。
爾前・権教では、末法の無明という深い闇を破ることはできないからです。
むしろ、それらの教えは、自身の心と時代を覆う闇の深さを気づかせる。根源的な悪への自覚・反省を促す。しかし、その罪業の消滅は、偉大な神仏に頼るしかない、ということになってしまう。
*森中─悪を自覚した人は、その分、無自覚のまま悪を積み重ねる人よりはましといえるかもしれない。しかし、悪を解決する方法を自らはもたないと知る分だけ、苦悩は一段と深まるのではないでしょうか。
*名誉会長─釈尊は、確かに偉大であった。法華経は、その偉大な仏の生命があらゆる生命に具わり、妙法を根本にすれば、だれにでもいつでも開かれることを明かしている。
ところが、釈尊滅後には、“あれは釈尊ならではのことだ”“私たちは違う”と弟子たちは思い、また人々にもそう語った──。
*斉藤─法華経に説かれる久遠の仏をはじめ観音などの菩薩や諸天善神も、すべて偉大な利益をもたらす救済者としてしか、捉えられていなかった面が強い、といえるでしょう。
まさに根源の悪、無明・謗法の毒に負けてしまったのですね。
*名誉会長─生命の内なる永遠の大法、本因本果を見失ってしまったのです。
*斉藤─その結果、一つには、自身の心に本来ある法を見失い、外に求めるという誤りに陥る。それが、念仏に代表される他力の信仰ですね。他者依存、現実逃避の誤りに陥ってしまう。
また、自身の心の真実の法を見失い、そうでないものを本物だと思って執着してしまう誤りもあります。それが、真実の自己でないものをそうだと思い込んでいた釈尊当時の諸宗教家や、「未だ得ざるを得たり」と慢心を起こしている禅に代表される自力信仰ですね。幼児的全能感、自我肥大の誤りに陥ってしまう。
*森中─大聖人が立宗後、早い時期に、念仏と禅を破折されたのは、この両極端の誤りに気づかせ、法華経が説き示す生命の真実、内なる妙法に目覚めさせるためだったのではないか──そのように拝察します。
*名誉会長─「太陽の仏法」は、人類史を見ても、宗教としての質が、それまでとは全く異なる。大聖人は、その「太陽の仏法」を世界に宣言された。
念仏型の他力偏重の陥穽(かんせい)にも、禅型の自力偏重の陥穽にも陥らない。まさに中道を絶妙に示されたのです。
太陽は、すべてを平等に照らし出す。
同様に太陽の仏法は、万人の生命を等しく照らし、一人ひとりの生命を妙法の福田(ふくでん)に変えていくのです。そして社会に、世界に、妙法の人華(にんげ)を爛漫と咲き薫らせていくのです。
人間革命、立正安国、世界広宣流布こそ、太陽の仏法が目指すものです。
法華経の心を説く太陽の仏法は、一人ひとりが自発・能動で開く宗教です。一人ひとりが太陽になる仏法です。
法華経は、末法上行菩薩をはじめ地湧の菩薩が現れ、無明の闇を照らすと宣言している。大聖人は、その仏の予言を実現し証明するのは御自身であるとの崇高な使命を述べておられる。 (『御書の世界 第3巻』池田大作)

11月2日更新:2