畜に同じ不知恩の者なり(御書215ページ)

2011年11月18日(金)更新
・斧節『宮田論文に関する覚え書き 1』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111117/
>>マンダラについて調べていたところ、宮田幸一さんのページがヒットした。いやあ、たまげた。驚愕の一言に尽きる。友岡本以上の昂奮を覚えた。学問する精神を仰ぎ見る思いがする。(中略)創価学会員でこれほど高い視点をもつ人物がいたとはね。(小野)
井の中の蛙大海を知らず
●御本尊への信心がなくて法華経が読めるものか。読めるわけがない。─戸田先生
外典・外道の四聖・三仙 其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁(わきまえ)ざる事 嬰児のごとし(御書188ページ)
●法に依つて人に依らざれ(御書569ページ)

>>創価学会は2002年4月1日に会則を改正した。この際、三代会長を「永遠の指導者」と規定した。私は発表された当初から違和感を覚えた。(小野)
●下劣な人間は、偉大な人物のあることを決して信じない─ルソー

・リンク先、斧節『創価学会会則はコンプライアンスである』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20071015/
●この大恩ある日蓮を信じようとしない人々は、どうして諸天に捨てられないことがあろうか。こう言えば、愚かな者は日蓮は自分のことを呪っていると言うであろう。(御書894ページ、通解)

>>私はこの会則変更は致命的な失敗だったと考えている。大体、三代会長を永遠の指導者としておきながら、教義を変更する権限は会長にあるわけだから、長い歴史の中でこの文言が削除される可能性も否定できない。そもそも「永遠」という概念そのものがキリスト教に由来するというのが私の持論だ。(小野)
●悪心を壊き国王・大臣・婆羅門・居士及び余の諸の比丘に向つて誹謗して我が悪を説いて其れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん悪鬼其の身に入る(御書81ページ)

>>存在しない永遠を規定すれば、それは「神」を目指すことになる。つまり神格化といってよい。日興門流における偽書や後加文の類いは、全てが日蓮を神格化(本仏化)する内容となっているのも同じ手口だ。(小野)
●すぐれたものを認めないことこそ、即ち野蛮だ─ゲーテ
●心ある人びとは、自分たちのために日蓮はこんなにも苦しんでくれたのかと感謝すべきである。もし恩を知り、心ある人びとならば、日蓮が二つ打たれる杖の一つは代わって打たれるべきである。しかし、そうではなく、かえって大恩ある日蓮に怨(あだ)をなそうとすることは、まことに理解できないことである(御書1450ページ、通解)
日興門流を引き合いに出して、永遠の指導者であられる三代会長を、邪見から「神格化」と言って誹謗し、師と不二で進む学会員の前進に嫉妬する。それは醜い堤婆だ。邪論・妄論に皆辟易!

>>永遠の指導者に対して「納得できないことがあってもオッケー」というスタンスが認められるのであれば、絶対性からは離れてしまう。(小野)
日蓮は日本国の諸人にしうし(主師親)父母なり(御書237ページ)!
●正法をたもつ人に嫉妬心を強くいだいている(御書228ページ、通解)

>>宮田論文ではこの後、価値論にも触れている。牧口価値論は極めて数学的な原理で有益だが、二つの問題を秘めている。まず一つは真理を斥(しりぞ)けてしまったことである。これによって創価学会は完全に「悟りと無縁」な教団となってしまった。もう一点は「善悪を対立概念」としたことだ。(小野)
●実際には、正しい僧侶でもないのに、僧侶の姿をしており、邪見が非常に盛(さか)んで、正法を謗(そし)る(御書228ページ、通解)

>>牧口先生は「善と正義は異なる」との卓見を示しながらも、善悪を相対的価値観として捉えた。悪の反対は正義である。そして悪を規定するのもまた正義なのだ。では正義とは何か? それは集団の経済的尺度によって判断されるものだ。アメリカが掲げる正義はイラクから見れば悪そのものであるし、創価学会の正義は日蓮正宗からすれば謗法となる。(小野)
●自見を以て正義と為(す)るが故に還つて法華経を以て或は小乗経に同じ或は華厳大日経等に同じ或は之を下す、此等の諸師は儒家外道の賢聖より劣れる者なり(御書242ページ)!
●牧口先生は、衆生の救済に究極の善を見ておられたようだ。反対に自分の利害だけを考えるエゴイズムは悪の根源です。(『法華経智慧 第三巻』池田大作)
●牧口先生は、「公益を善という」と定義されています。法華経は万人を成仏へと導く経典です。その意味で、法華経は最高の公益、最高の善を目指していると言えますね。(同)

>>価値論が創価学会という教団をプラグマティズムへと誘導したように思えてならない。(小野)
牧口先生のご功績をも侮辱する恩知らずの輩め!
●牧口先生が法難の獄中で、最後までひもとかれたのがカントである。戸田先生も、よくカントの哲学を引かれた。「嫉妬」が和合を乱す。「恩知らず」が仏法を破壊する。 (御指導、2009-03-04)

>>善に対立概念はない。善は誰が見ても善である。(小野)
●汝が立儀一一大僻見(びゃっけん)なり(御書154ページ)!
●善と悪とは「実体」ではない。どこまでも「関係」の概念です。(中略)牧口先生は、「善人でも大善に反対すれば直ちに大悪に陥り、悪人でも大悪に反対すれば忽(たちまち)に大善になる」と言われていた。 (『法華経智慧 第三巻』)

>>既にいくつも紹介しているが、悟りといっても脳内現象である。側頭葉が激しく反応することも科学的に判明している。癲癇患者の発作や、LSDを服用した状態と酷似していることも明らかになっている。(小野)
●臆病で教えたことをすぐ忘れ(御書1191ページ、通解)
末法の悟りとは何か。それは御本尊を信じきるということだ─戸田先生
●われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります─戸田先生

>>もしも真理や理法が存在するなら、ブッダの悟りと日蓮の悟りは全く同じものであるはずだ。そこに上下関係を持ち込んでしまえば、真理が複数存在することになる。(小野)
●邪見と云う謗は是れ乖背(けはい)の名なりすべて是れ解・理に称(かな)わず言は実に当らずして異解(いげ)して説く者を皆名づけて謗と為す(御書148ページ)

>>創価学会の宗教的な原点が戸田先生の悟達にあるならば、やはり全員が悟達を目指すべきだと私は考える。(小野)
●奴婢(ぬび)と為って持者(=師匠)に奉(つか)えよ(御書537ページ)!
●我弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず(同)