「我れは深く汝等を敬い」─不軽菩薩

2011年12月5日(月)更新:3
・斧節『宮田論文に関する覚え書き 6』 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111201/
>>論文の趣旨からは外れるが、「あそこまで大騒動する必要性は今でも見出だせない」という指摘は見逃せない。これが事実であるとすれば、第一次宗門問題改め池田×日達紛争は教義に端を発したものではなく、教団内部の政治的、あるいは感情的な問題であったことが窺える。(小野さん)
事の本質を見極めよ!嫉妬に狂った宗門と、その裏で、退転者山崎正友による陰湿な画策があったのは周知の事実です。その迫害を人知れず一身に受けられ、全学会員をお護りしてくださったのは誰ですか。池田先生ただお一人だったじゃないですか!後に続く私達はこの大恩を知らなければいけません。

>>この覚え書きを記した目的はここにある。創価学会は第二次宗門問題改め池田×日顕紛争の際、法主本仏論を徹底的に糾弾した、しかしながら創価学会における師弟論が絶対性に基づいているため、議論としては有効ではない。法主か師匠かという相違だけである。(小野さん)
学会の師弟観、池田先生の偉大さ、そして師と共に進む「不二」の精神。この源流を心でつかまなければ、いくら頭で考えてもわかりません。今すぐに理解するのは難しいかもしれませんが、これだけは伝えておきます。
池田先生は素晴らしい師匠です!そして、お元気な先生と、もったいなくも共戦できる日々がどれほどありがたく、無上の幸福であるか!いつか分かる日がくると信じます。
●*須田─日寛上人も、大聖人と「不二」の境涯になるのが、大聖人の仏法の真髄であることを強調されています。「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」(文段集676ページ) 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集548ページ)と。
*遠藤─その御精神とは正反対に、「不二」にさせまいとするのが日顕宗です。大聖人の弟子が大聖人と「不二」の道を進むことが、彼らには、よほど都合が悪いのでしょう。
*須田─「不二」たるべき師と弟子を、どうしても引き離したい。要は、そのすき間に、自分たちが入り込んで、弟子たちの上に君臨したいのです。大聖人の凡夫即極の教え、それを受けた日寛上人の御教示を、真っ向から否定するものです。
*斉藤─「本仏」という言葉さえ、彼らにとっては、自分たちを権威化する手段となっています。大聖人を、凡夫から隔絶した超絶の存在のように思わせておいたほうが、法主をはじめとして自分たちの権威も高まるという邪智です。
*名誉会長─大聖人を崇めているようで、実は大聖人の御心を殺しているのです。最高の「人間尊敬の教え」を、最低の「人間蔑視の教え」に、すり替えてしまっている。民衆を蔑視する傲慢ゆえに、大聖人の説かれた「不二」の道を壊したいのです。ドストエフスキーは洞察している。
──実は、傲慢な人間の多くは神を信じる。「人間を軽蔑している者」には、それが著(いちじる)しい。なぜなら彼らは、「人間に頭を下げたくない」から神を選ぶのである。「神の前に跪(ひざまず)く」のであれば、自分の傲慢は傷つかず、何ら苦痛ではないからだ──(『未成年』、要旨)
文豪の、非常に鋭い“心理学者”の一面をのぞかせている。
*斉藤─この言葉の「神」を、彼らの言う「凡夫と隔絶した御本仏」と置き換えれば、その心理は、より明瞭ですね。
*遠藤─彼らが跪いているのは、実は大聖人の教えに対してではなく、自分自身の醜い欲望に対してなのですね。
*名誉会長─堕落した人間に惑わされることほど愚かなことはない。要は、見抜けばいいのです。「師弟不二」こそ法華経の魂であり、日蓮大聖人の仏法の真髄です。その一番大事なものを壊し、切り離そうとする。それが「魔=奪命者」の特徴です。「不二の道」の否定は、十界互具の否定、人間の平等に対する冒涜(ぼうとく)にほかならない。この一点に、日顕宗の本質が顕れている。日淳上人は、学会の信仰の基盤は「師弟」にありと、厳然と見抜いておられた。
(中略)
*斉藤─「師弟不二の道」とは、師と同じ心、同じ祈りに立って戦っていこうとすることだと感じます。 (『法華経智慧 第一巻』池田大作

>>問題の急所は日蓮正宗創価学会も悟りを不問に付してきた一点にあるのだ。このため両派(「派」と書いてしまうぞ)における功徳と罰は、プラグマティックな損得次元となってしまっている。(小野さん)
戸田先生は「末法の悟りとは何か。それは御本尊を信じきるということだ」と仰っておられます。まずは唱題に挑戦し、何か一つ自分の体験をつかんでみてください。

>>一生成仏が今世のゴールであるならば、現在の自分は否定されるべき存在と化す。(中略)成仏という状態が将来的に約束されるものであるならば、それは思考の範疇となる。(小野さん)
その考えは、爾前経の歴劫修行にあたります。否定から入れば希望は見出だせません。仏法はそのような自己否定の教えなどでは断じてありません。
釈尊の弟子の須梨槃特は、三年間に十四文字の仏の教えすら暗唱できなかったけれども、仏になれた。(御書1472ページ、通解)
●一生成仏の根本は「信」の一字だ。 (「御書とともに」聖教新聞 2011-10-22)
法華経の行者は、仏が説いた通りに修行すれば、必ず一生のうちに一人残らず成仏することができる。譬えば、春や夏に田んぼを作るが、稲に早生(わせ)と晩生(おくて)という品種の違いがあっても全て1年のうちに収穫できるように、法華経の行者も上中下の機根の相違があっても、必ず一生のうちに成仏できるのである(御書416ページ、通解)
●──大聖人の仏法では、なぜ、今世で成仏が可能になるのですか。
生命の根源の法である妙法(南無妙法蓮華経)を修行するからです。このことについて伝教大師は「竜女も歴劫修行で成仏したのではなく、妙法の経力によって即身成仏したのである」(御書473ページ、通解)と述べています。 (「新 やさしい教学 『一生成仏』」聖教新聞 2011-10-23)
●成仏とは、一つの「ゴール」に至ることというよりも、絶えず仏界を強め続けていく「無上道の軌道」に入ることなのです。 (同)

>>もっと厳密に見てみよう。創価学会における理法と日蓮正宗における教法に大差はない。どちらも他人の言葉に従っているだけだ。(小野さん)
正邪は明白です!
●腐敗・堕落した宗門は、日蓮大聖人の御精神に真っ向から違背し、「僧が上で、信徒が下」などと一方的に権威・権力を振りかざしてきた。あの時代錯誤で封建主義の邪宗門と一緒のままだったら、ここまで日蓮仏法は世界へ広まっていません。 (「記念座談会」 聖教新聞 2011-11-21)

>>こうして考えてみると、理法の教法化が現代における権実雑乱と思えてならない。(小野さん)
根本的な解釈を誤っています。「一向に権経に執するが故に実経を会して権経に入れ」(御書49ページ)ることが権実雑乱です。

>>そもそも悟りを言葉に置き換えることが可能だろうか?言葉でなされるのは「説明である」。「言葉を信頼する」なあんて言えば聞こえはいいが、こうした発想は言語を絶対視する方向性、すなわち教義化に向かわざるを得ない。(小野さん)
●*名誉会長─わかりやすい言葉が日常の意味を越えて、言葉の海面下に沈んでいた心と心、人格と人格の全体を結び付ける力を持つのです。それが本当の意味の「わかる」とか「伝わる」ということです。そこに譬喩の力もある。
*遠藤─私自身の体験で恐縮ですが、かつて失意のどん底にあった時、先輩から“大変だったね”と言われた、たった一言に心からの励ましを感じ、胸を揺さぶられる思いがしたことがありました。今思うと、相手を思う一念に、人は感動し、心が動かされるのですね。
*名誉会長─そうです。言葉であって、言葉ではない。言葉の力は、心です。心が根底にあるから、言葉が生きてくる。大聖人も「言(ことば)と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(御書563ページ)と仰せられている。(『法華経智慧 第二巻』池田大作

>>教義は人を縛る(小野さん)
●「この信仰は、何か狭い世界に入るんじゃない。自在の福徳の世界に出るんだよ!」─牧口先生 (大白蓮華 2011年11月号)

>>大体、教義論争をしている人のどこにブッダの精神があるというのか。(小野さん)
>>宗教に思想はない。ただ教団同士の抗争があるだけだ。(小野さん)
●一流のものに触れよ─師匠
学会が日顕宗と戦ったのも、全て民衆を護る為です。民衆の幸福の為です。今、世界の一級の学識者は創価の哲学に共鳴している時代です。次の記事の【世界はなぜ讃えるのか 解説】を読み、一流の知識人からその一端を学んでください。
・香風『SGI会長は調和へ導く人 共生の文明を創造』 http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20111117/

>>言葉に額づかせるから教団内のヒエラルキーが生まれる。(小野さん)
●仏と同じ心に立とうということです。この姿勢、つまり信がなければ、仏の心を顕そうとした法華経は永久にわかりません。それがあれば、そうした批判がどんなに浅薄かがわかるのです。(『法華経智慧 第二巻』池田大作

>>「生きているって、凄いことなんだよ」――ブッダ日蓮のメッセージはこの一言に尽きる。(小野さん)
その通りです。まさしく先生もそうです。次の記事に、先生のその大慈大悲が満ち溢れているといえないでしょうか!
・香風『海に潜り続けて生死と向き合いながら、生きる使命と命の尊さとを知る』 http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20120330/
●二十八品は正(まさし)き事はわずかなり讃(ほ)むる言(ことば)こそ多く候へ(御書1242ページ)
●すなわち「法華経の功徳はほむれば弥(いよいよ)功徳まさる」(同)──仏が賛嘆しているのだから、我々も大いに賛嘆すれば、功徳はいよいよまさるのだ、と。 (中略)わずかな「正き事」の中に、一切衆生の成仏の種子が厳然とあるのです。(『法華経智慧 第二巻』池田大作

・リンク先、斧節『組織宗教からは模倣人間しか育たない』 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20091117/
●只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来(きた)らぬ福や有るべき、真実なり甚深(じんじん)なり是を信受すべし(御書497ページ)
●人が人のために動き、互いに支え合う。それは弱い生き方ではない。反対に、人のために行動することで、人は強くなる。(「名字の言」聖教新聞 2011-11-30)


・斧節『宮田論文に関する覚え書き 7』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111202/
>>だから見える人にとっては幽霊は実在するといってよい。統合失調症などの幻覚・幻聴も同様だ。(小野さん)
●題目を苦しみに集中砲火して打ち破るのだ─恩師 気迫の祈りで障魔は退散 (「寸鉄聖教新聞 2011-12-02)