慢のはたほこを倒し、妙法の良薬を信受せよ!

2011年12月5日(月)更新:4
・斧節『組織の本質』 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111203/
・斧節『本部職員は不明を恥じよ』 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111204/
●かかる重病をたやすく治(いや)すは独り法華の良薬なり、只須(すべから)く汝仏にならんと思はば慢のはたほこを倒し忿(いか)りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり(御書463ページ)
・香風『教育の根源は師弟にあり!師の闘争に学び、師に続け』 http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20120127/


・斧節『宮田論文に関する覚え書き 8/五百塵点劫に関する考察』
>>宇宙ができたのは137億年前であるとされている。つまり137×10の8乗だ。ところが五百塵点劫は上記ページによれば5×10の75乗〜86乗となっている。(小野さん)
>>では五百塵点劫が示しているものは何か?それは生命論なのだろう。過去という記憶(業)を一掃し、未来を捨て去るところに「死」が浮かび上がってくる。(小野さん)
●御本尊を信じ切った時、全てを楽しめる人生に─恩師。唱題こそ幸福の礎 (「寸鉄聖教新聞 2011-12-05)
●*斉藤─読者の方から、よくご質問をいただきます。なぜ法華経には「三千塵点劫」とか「五百塵点劫」とか、想像も及ばない長い時間を表す言葉が出てくるのでしょうかと。
*遠藤─私も同感です。例えば寿量品の「五百塵点劫」のところでは、「五百千万億那由陀阿僧祇」という天文学的な数の「三千大千世界」を粉塵にします。そして東の方へ進み、「五百千万億那由陀阿僧祇」の国土を過ぎるごとに、その塵を一粒ずつ落としていく。
釈尊は“善男子よ、すべての塵がなくなるまで通り過ぎた世界の数は、どれほどあると思うか”と問いかけていますね。
*須田─その無数の世界を、さらに粉塵にしてできた粒のそれぞれを一劫とする。まさに長遠な時間です。
これを“ゼロが何百個並ぶ”とか“十の何百乗”とか、端的に数字で示せたら、その方が、話は早いかもしれません。
*池田名誉会長─それなら、法華経もずいぶん短くなるだろうね(笑い)。
だが、考えてみよう。もし仏が「私は十の何百乗年前という昔に仏になった」と言ったとしても、弟子はそれを「はい、そうですか」と、受け身で聞くしかない。
しかし、“三千大千世界を粉々にして、一つの国土に一粒ずつ落として……”と、「物語」として聞けば、弟子はその長遠さを自分でイメージし、能動的に考えることができる。
*斉藤─なるほど。法華経の多くの「譬喩(ひゆ)」も、このイメージの力を証明していますね。
*名誉会長─その通りです。ある学習は、教育の視点から、譬喩の効果を説明している。譬喩を用いて教えることは、教わる側(生徒)に、教える側(教師)が歩んだ思考の道のりを、そのままたどらせることになる。つまり、単に知識を「受け身」で聞くのではなく、“自分で考える”という「能動的な精神作用」を促すことになると(O・F・ボルノー著『言語と教育』、森田孝訳、川島書店)。
*遠藤─精神的な病を対象とした心理療法の分野でも、“自分で考える”ことを重視しています。例えば「箱庭療法」は、治療を受ける人が、砂の入った箱に、小さな人形や家の模型などを置き、自由に“庭”をつくっていくものです。箱庭をつくることは、その人が自分で物語をつくることでもあり、それがその人の心に、自己治癒力を活性化させることにつながっていくというのです。 (『法華経智慧 第二巻』池田大作