我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ

2012年2月28日(火)更新:6
・斧節『三国四師とは』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20120218/

・リンク先、『親鸞道元日蓮
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20090311/

【名字の言】
 「希望学」を提唱・研究する社会学者の玄田有史さんが、とある寺院に頼まれて講演をした時のこと。聴衆の反応に、手応えが感じられない。尋ねると、浄土真宗の経典に「希望」という言葉は出てこないので、との答え。それが教えの特徴であることに、あらためて気付いたという(『希望のつくり方』岩波新書
 浄土真宗の祖は、鎌倉時代親鸞地震や飢饉・悪疫で多くの人々が亡くなる惨状を見て、哀れに思いつつも、しかし生死無常の理は仏が説かれているので、今さら「おどろきおぼしめすべからずさふらふ(=驚くことではありません)」(末燈鈔)と記している
 この、人ごとのような淡泊さは何だろう。とてつもない悲劇に見舞われた時、人は「怒り」や「悲しみ」を通り越して、しばしば「無力感」にとらわれる。そこに安住するのが、念仏の境地なのか
 同じ時代の日蓮大聖人は「立正安国論」を著し、民衆救済の方途を為政者に烈々と訴えられた。その魂を受け継ぎ、池田SGI会長は今年の「1・26提言」で、苦難に直面した民衆へ「生きる希望」を送り続ける
 怒りと悲しみを忘れず、人々の苦悩を癒やすため関わり続けること。時代の「希望」は、その民衆運動のなかにこそ躍動する。 (聖教新聞 2012-02-21)