「地涌の菩薩」とは、一人立つ「自発能動の戦士」

2012年3月5日(月)更新:3
【名字の言】
 日本語で「責任」というと、重い響きがある。責任を「負う」「取らされる」など
 英語ではどうか。哲学者の鷲田清一氏が、オバマ大統領の就任演説にある“新しい責任の時代”という言葉を取り上げていた。――それは、自身や自国、世界に対する変革の責務を訴えるものである。ケネディ大統領も就任時、“人類の自由のために何ができるかを自らに問おう”と述べた。二人の演説に通底する「責任」は、英語の「レスポンシビリティー」。「応答する」に由来し、“他者からの求めや訴えに応える用意がある”との意味を含む、と
 だが、日本語の「責任」に、そうした含意はない。国家や組織の一員として「負う」責任であって、“私”に呼び掛けられたと自覚し担うものではない、と氏は述べている(『だれのための仕事』講談社学術文庫
 「取らされる」責任は、立場や肩書に応じて、生まれては消える。一方、主体的に引き受ける責任は、その人の生き方を決めていく
 後者の「責任」は「誓願」と言い換えてもいいだろう。広布の活動は、誰かに言われてするものではない。自ら誓い願ったもの。“「地涌の菩薩」とは、一人立つ「自発能動の戦士」”と池田名誉会長。この清々しい決意で、春3月を進みたい。 (聖教新聞 2012-03-05)