平和とは一人の人間の変革から ゆえに対話を!

2012年3月18日(日)更新:1
SGI会長の中東初訪問50周年に寄せて エジプト・カイロ大学 セリーム博士】
池田大作氏ほど、対話という芸術を実践し、熟達している人間は、おそらく、ほかにいないであろう。
 池田氏の人生を的確に評価し、氏の哲学に対する理解をより深めるためには、氏があらゆる階層の人物のみならず、自然との間でも行ってきた一連の対話を知らなければならない。
 対話の重要性に関する池田氏の根本的確信は、日蓮仏法の中心的信条に根ざしている。
 それは、すなわち「生命の基本的尊厳」であり、池田氏の見解によれば、恒久平和と人間の幸福への鍵となる価値観である。
 さらに池田氏は、世界平和のためには、社会や構造の改革にとどまらず、一人の人間の生命を自ら変革することが究極のよりどころとなると考えている。
 そうであるならば、平和裏な交流こそ、人間の幸福と平和の実現にとって決定的だというのも、しごく当然である。
 そうした交流は複数の様相を呈するが、その中で最も重要なのが対話の実践である。

〈差異を尊ぶルール作る〉
●池田・テヘラニアン対談は、対話、特に文明間で交わされる対話を効果的なものへと導く条件に対し、非常に注意を払っているものだった。
 両者は冒頭から、相手に対する尊敬や、意見の一致を見るための共通項の探求、そして、合意できる分野を特定し、過度の干渉は控えるといった、対話のルールを明確に述べていた。
 さらに、対話の目的は真理の探求であり、他者を理解することであることを定めた。
 この対談集が根本とする多文化主義という基本的信念が、彼らにとって意味するところは、一切が同等の価値と重要性を持つ、ヒエラルキー(階級階層)とは無縁の文化の枠組みの普及である。
 そしてまた、アイデアや技能の交換に基づきながら、共存する文化間で交わす真の対話であり、反人種主義的方策の追及であり、文化的対話の機関に、全ての文化団体が参加することである。
 多文化主義の本質的な意味は、文化的差異を認め、尊重し、文化間の交流の道筋を確立することである。
 このことは、イスラムと仏教について同書(※『21世紀への選択』)で広範に語られた対話からも、また互いの共通項や、世界平和のために、どのように貢献できるかを見いだそうとする両者の試みからも、明確である。

〈事実を知らずして判断してはならない〉
 また、“他の文化をありのままに捉え、率直に尊重すべき”と強調する池田氏の発言にも、そのことが反映されている。
 池田・テヘラニアン対談の、もう一つの主な特色は、現代が直面する問題にも取り組むことで、対談自体が、新たな知識を生み出すものでなければならないと両者が力説していることである。
 実際、対談の中で、地域や地球全体が抱える問題の大半が取り扱われている。
 こうした文脈の中で私が気づいたのは、仏教徒池田氏が、仏教ばかりでなく、イスラムについても語っていることである。
 イスラム文化とその生活様式について、氏が深く精通していることが明らかであった。
 その理由は、池田氏がイラン、エジプト、パキスタン、トルコ等を訪れ、それらの諸国のムスリム(※イスラム教徒)の振る舞いを注視してきたからであろう。
 池田氏の理解は、単に書物だけではなく観察にも基づいている。
 氏は、“事実を知らずして、判断してはならない”との人間に対する戒めの言葉を発している。
 これは、イスラム文化の何たるかを知らずに、イスラム世界を悪魔のごとく喧伝する連中にについて間接的に言及したものである。
同書の主なメッセージは「対立ではなく対話を選択しよう」、また、「対話を人間にとって役立つものへと転じるようなルールに基づいて、対話の可能性を追及していこうではないか」との呼びかけである。
 この黄金律を実行すれば、戦争の回避のみならず、飢餓と貧困を打破することで、何百万もの人命が救われるであろう。
 さらに、この対談集によって、イスラム世界と仏教界の間で新たな対話を展開する地盤が開拓された。
 池田・テヘラニアン対談において明確に示された概念的枠組みから判断するに、そうした対話が最高に実り多きものとなることを、私は強く確信するものである。
 実際、私は、同書の翻訳を終えた後、人類に対する貢献として我々の偉大な人間主義者が編んだ、別の対談集の翻訳作業に没頭している最中である。 (聖教新聞 2012-03-18)