御書を「口」で読み、「意」で読み、「身」で読むことに挑戦したい

2012年4月12日(木)更新:4
【名字の言】
 古にさかのぼれば、学ぶとは素読することだった。「読書百遍意自ら通ず」と言うように、口に出し、覚えるほどに読み込むなか、文章の深い意味へと理解が及ぶのである。福沢諭吉は若き日、古典の大著『春秋左氏伝』を11度も読み返し、面白い部分は暗記したという
 名文には人間を鍛える力がある。しかも、人生の経験を重ねると、心に刻んだ一文は時に通途の解釈を超える。その人独自の指標として新しい輝きを放ちゆくのだ御書の拝読にも同じことが言えるだろう。多くの信仰体験には、苦難に直面した時、心の支えとなった御文がある。日蓮大聖人の精神が現代によみがえるかのごとく生き生きと語られ、聞く人の心を熱くする。たとえば「冬は必ず春となる」(御書1253ページ)との短い御文も、信仰体験を深めてこそ、自身の生命に根を下ろした人生観へと転じよう
 詩人の長田弘氏が綴った一文を思い出す。いわく“その言葉によって初めて、自分がその言葉を経験したというふうに感じられる。そうした言葉こそ手にしたい”と(『読書百遍』岩波書店
 なればこそ、御書を「口」で読み、「意(こころ)」で読み、さらに「身」で読むことに挑戦したい。その先駆者たる、創価の三代会長を範としつつ――。 (聖教新聞 2012-04-12)