思想の真価は実践の中に輝く

2012年5月13日(日)更新:4
【世界の知性は語る 池田国際対話センターの出版『教育の道徳的ビジョン』示す コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ教授 デイビッド・ハンセン博士】
〈良き社会の基盤は良き教育に〉
●教育の真髄は知識の伝達にあるのではなく、子どもたちが真の人間として成長するための糧となることにある
●本書(※『教育の道徳的ビジョン――実践の哲学』)で紹介した10人の教育哲学者は、その最も困難な根本方針を実践に移した人たちなのです。そこに、彼らの偉大さがあるのです。
●真の哲学とは実践のためにあるのです。行動のなかにあるのです。言い換えれば、私たちは、哲学を自ら体現しなければならない、ということです。

〈偉大な模範示した牧口初代会長〉
●良き思想を語っただけで、その人が良き人間といえるのか。それは大きな疑問です。真に偉大な人間とは、思想をそのままに実践する人です。では、何をもって、その人を偉大であると評価するのか。
 それは、その人が、自身の可能性を、自身の力で十全に開発した人であるか否かにある、と私は考えます。
●とりわけ、創価学会の牧口初代会長は、自らの思想に生き抜き、そのために、国家権力によって死を与えられました。これほどの、厳しき模範は他に類を見ないでしょう。
 人間の可能性の開発は、大地に作物を生育させていくようなものです。その育成は、論理的な思考によってなされるものではありません。生命という大地に根を張り、さまざまな経験、体験を通して、育まれていくものなのです。
●西欧では、価値とは、自らが生まれ育った家庭、地域社会、さらに文化といった環境を通して、人間の内面に育まれたものである、と考えられてきました。自らが創造するものである、とは考えられてこなかったのです。
 ゆえに、牧口の価値創造の思想、すなわち、人間は、自らが価値を創造しゆく存在である、との思想が新鮮に響くのです。
 もちろん、牧口の説く価値創造とは、商品を製造する、といった概念とは、まったく異なる次元に存在するものです。しかも、その創造は、個人が孤立して、単独で行うものではなく、自然との交流、他者との交流の過程で開発されていくものです。
 そして、その創造は、過程のなかに生まれいずるものであります。それゆえに、一回性のものではなく、永遠に持続し、高められ続ける性格をもったものなのです。牧口はそれを、特異な、独自の思考をもって説いているのです。

創立者の指針“何のため”に共感〉
●私は2005年の11月、東京の創価学園を訪問し、学園生との懇談の機会を得ました。
 その折、生徒たちから、さまざまな質問が寄せられました。
●一人一人が決して観念的な思索をもて遊ぶのではなく、直面する課題を深く心に掛け、挑戦し、実践に移していこうとする姿に心打たれました。とりわけ、一人の男子生徒が、教育は不平等を克服し社会正義を実現するために、何ができるか、と目に涙を浮かべながら問いかけてきたことが、強く印象に残っております。
 学校で、真に良き教育が行われているか否かは、学生や生徒が、自らの意見を述べる機会が与えられた時、どのような発言をするかにかかっている、といっても過言ではありません。そうした機会を得ても、生徒たちがあまり発言をしないケースもあります。
 しかしそれは、生徒が愚鈍であるから、と考えてはなりません。その学校が生徒たちに、ものごとを深く問いかけあう、真の対話を大切にすることを、啓発してこなかったからにほかならないのです。
 ものごとを、良く、深く問いかけるためには、それに関する深い知識が必要です。しかし、それは外から詰め込まれる、単なる情報としての知識ではありません。自らが、主体的にものごとについて深く思索をめぐらせるための材料としての知識なのです。
 そのようにして質の高い問いかけができれば、一つの問いかけは、一つの回答や理解をもたらすだけではなく、それが、他の多くの回答や理解を導き出す力となっていくのです。
 SGI会長が示されるように、“何のため”と問い続けることこそ重要なのです。学校の役割は、答えを与えることではありません。生徒が、学校を卒業する時、より深い問いかけをもって新たな世界に飛び立っていけるような環境を整えることにあるのです。そうした学校こそが、真に良き学校といえるのです。
      (聖教新聞 2012-05-13)