生命の尊厳と絶対的悲暴力

2012年6月27日(水)更新:1
・斧節『同質化作用』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20120626/
【ロシア「池田大作選集」刊行から1年 「ゴルバチョフ対談」に広がる反響 ロシア科学アカデミー哲学研究所 グセイノフ所長】
マルクス主義と仏教の対話〉
●数多くの対談集を編んでいる池田会長の著作の中でも、ロシアで千年紀の変わり目に発刊(2000年)され、昨年に再版されたゴルバチョフとの対談『20世紀の精神の教訓』は、特別な位置を占めている。
 「政治」は人間の崇高な営みの中で最も現実的なものであり、一方、「哲学」は、俗世界の中で最も世俗を超越している故に、その二つの分野を代表する政治家と哲学者の興味深い対話だということもできる。
 しかし、何よりもこの対談を際立たせているのは、共著者が、人間の精神世界において最もかけ離れているマルクス主義と仏教を代表する2人であるという点である。
●池田会長とゴルバチョフは共鳴しあった。そのベースとなったのは、2人の開かれた心であり、それは人間生命の絶対的尊厳と絶対的悲暴力の信念に裏付けられている。
 両氏は、「戦争と暴力は絶対に正当化することはできない」ということが20世紀の教訓であると考えている。戦争と暴力を手段としているかどうかということを見れば、もともとの目的に欺瞞があるかどうかが分かるのである。

〈道徳的価値を生きたものに〉
●歴史を評価するにあたって、ゴルバチョフと池田会長は、道徳、自由、人間主義、民主主義、人権といった、誰人にも異論の余地のない価値基準を物指しとして用いている。
 この「異論の余地のない価値基準」は、一方でやっかいな問題をはらんでいる。というのは、これらの概念は多義を含んでおり、さまざまな人々や社会勢力が理念として掲げ、目標として用いたり、さらによくあるのが、それを単に自分の隠れ蓑とする場合があるということである。侵略者が戦争を仕掛けるのに、「平和のため」という大義名分を持ち出すのは常套手段である。権力をほしいままに行使するために、民主主義を根拠として持ちださなかった独裁者などいないのである。
 「地獄への道は善意で敷き詰められている」というのが世の常である。人文科学の理論と実践において重要な問題は、いかにして道徳的価値を生きたものにしていくか、いかにして道徳的価値をデマゴーグ(扇動家)の道具にさせないように守るか、という点である。
 本書では、このような問題提起がはっきり行われているわけではないが、読んでいけばその答えを見つけることは可能である。
 現代の賢人であるゴルバチョフ、池田両氏とも、歴史のリズムと人間の道徳性のリズムは一致しないということ、そして、社会は社会自体の法則に従って発展することをよく理解している。その一方で、歴史や社会は、すべてが個々人の具体的な行為で成り立っているということも認識している。
 この点において我々は、自身の内なる知力・心力を総動員して、一人一人が自身の良心に照らして判断をしていかなければならない。これはもう道徳の領域となり、個人が責任を負う領域となる。無論、人間が自身の行動をすべてコントロールできるわけではないし、望むことすべてができるわけではない。とはいえ、身近な人を殺すとか、暴力をふるうといった、良心の掟に照らしても、人間に共通の道徳的規範に照らしても許されない行為をしないことはできるはずである。
 両者はそれをふまえて行動した。ゴルバチョフは権力保持のために血を流させることはしなかったし、池田会長はお仕着せの愛国主義の催眠に社会が眠らされることをよしとせず、反対を唱える勇気を持っていた。

〈“民族”をめぐり〉
●本対談集の最終章は、新しいヒューマニズムがテーマになっている。「生命の権利は神聖であり、何人もこの唯一の生命を侵す権利をもってはいません。『手段を選ばず』的な考え方を正当化できるような目的はありません。これこそが、私たちの21世紀への選択なのではありませんか」とゴルバチョフが主張する。
 それに呼応するように池田会長は語る。「そのとおりです。その意味からも、巷間いわれる『一人の人間の生命は地球よりも重い』との標語は、文字どおり“20世紀の精神の教訓”として語り継いでいかねばなりません」
      (聖教新聞 2012-06-27)