偏狭な宗教原理主義を克服するために

2012年7月29日(日)更新:3
【世界の知性は語る ウェルズリー・カレッジ宗教・精神生活学部長 ビクター・カザンジン氏 池田会長は新しい思想を招き入れる達人】
 世界の対立構造の要因の一つに、自らの唯一絶対性を主張する宗教原理主義があります。そうした性向は、どこに由来するのか。また、どう乗り越えていくべきか――宗教間の対話、変革のための教育などを通して、平和と共生の道を探る、ビクター・カザンジン氏(全米随一の女子大学ウェルズリー・カレッジ宗教・精神生活学部長)に聞きました。


〈「中道の智慧」培う教育こそカギ〉
 ――宗教原理主義の温床は、どこにあるのでしょうか。
●カザンジン学部長 多くの人々は、矛盾に満ちた人生から逃避したい、あるいは、そうした現実に目をつぶって生きたい、との性向を持っております。矛盾し、複雑化した現実を、ことさら単純化し、極端化して考えたい、との傾向も強く存在します。
 そうした人々にとって、大いなる魅力となるのが“これこそ唯一絶対”と説く、宗教の存在です。絶対的な価値観を持つと主張する精神の世界に帰入(きにゅう)し、安住を求めようとするのです。

 ――同時に、そうした性向が異なる思想や文化に生きる人々との対立を生む要因ともなります。

●学部長 それを克服する道は、教育しかありません。緊張と変化に満ちた現実に、しっかりと根を張り、一瞬一瞬、最良の道を選択し続ける中にこそ、人生の真の安定と充実があることを教える教育が不可欠なのです。
 それを、中道の智慧を育む教育、と呼んでもいいでしょう。絶対的で、固定化した答えを、安易に教えたり、求めたりするのではなく、ものごとの真実の意味を、深く問い続ける教育の実践が急務なのです。
 残念なことに、現代の教育においては、解決策や回答を性急に求めようとする傾向が、以前、根強くあります。そのために、学生の間にも、不透明で、急速に変化する現実を鋭く見据え、真実のありかを深く問い続けようとする姿勢が、希薄になってしまっているのです。

 ――池田SGI創価学会インタナショナル)会長が、価値の創造のための教育を重要視する点も、そこにあります。それは、教育のみならず、宗教の実践においても肝要なテーマです。

●学部長 真の教育の目的は、単に、情報や知識を提供することにあるのではありません。人生を、どのような精神基盤の上に生きるか――その智慧を育むことこそ、教育の最重要の使命なのです。また、そうした教育のためには、深く人間性に根ざし、普遍的な精神に基づく価値観が不可欠なのです。
 アメリカでは、価値に基づく教育というと、即座に、特定の価値観を押しつける教育として、排除しようとする傾向があります。もちろん、教育に特定の、偏った価値観を持ち込むべきではありません。
 しかし、創価教育における価値創造の思想も、デューイの実用主義の教育の思想と実践も、そのような偏った価値観に依るものではありません。歴史の背景や文化の差異を超えた普遍のヒューマニズムの精神に基づくものであることを、世界は知るべきでしょう。


〈「普遍な精神」を求めたガンジー
 ――学部長は、毎年、学生を連れてインドを訪れ、異なる思想と文化との交流を進めておられます。そうした中で、ガンジーの非暴力の思想と行動が、仏教の中道の智慧に深く啓発されたものである、と見ておられますね。

●学部長 ガンジーの人格と思想は、世に遍在する人間苦のただ中に生き、それを正面から見据えるなかで、育まれたと私は考えます。上流階級の高みに座し、閉ざされた瞑想の中で生まれたものではなかったのです。
 釈尊その人がそうであったように、人間存在の根本に関する課題について、悩める人々と向き合い、共に生きる中で、解決の智慧を磨いていったのです。ガンジーは、中道の知識に生きた人であったのです。
 一神論的な宗教は、それを信奉する人々に、自分たちだけが、神との特定な関係を持つ、との狭い信仰観を与えがちです。宗教的原理主義の一つの温床も、ここにあります。
 しかし、ガンジーは、思想を絶対的なものとして捉えたり、それを狭義(きょうぎ)に解釈することを好みませんでした。特定なイデオロギーを超えた、普遍な精神のもとに、宗教や階層を超えた、全ての人々の心を結ぼうとしたのです。まさに、仏教的な中道の思想と実践に生きたのです。
 とりわけ仏教は、人間のみではなく、全ての生きとし生けるものが、尊厳にして平等な関係性を築きながら共存する、と説きます。ガンジーは、そうした仏教の普遍の智慧に共感し、啓発を受けながら、非暴力の精神と実践を深めていったのではないか、と考えます。

 ――異なる思想や文化との出あいは、得てして人間を自己防御的にし、攻撃的にさえします。そうした限界を乗り越え、差異を超えた理解と共感を結び合うために、何を心がけるべきでしょうか。

●学部長 例えば、私がインドを訪問する際、肝に銘じていることは、単に、異邦人として、外国の歴史や文化を学びにいくのではない、ということです。そこに住む人々の生活に学ぶことを、深く心がけています。
 そこに生きる人々を対象化し、客観視して研究するのではなく“彼らこそ教師”との思いで接するのです。この一点こそが、異なる文化に生きる人々と、正しく理解を結ぶ秘訣ではないか、と思います。こうした学問の姿勢もまた、差異を超えて互いに学び合い、創造し合う、中道的な学問のあり方の一つ、といっていいでしょう。


創価学会は生命の共感のオアシス〉
 ――中道の英知は、一見して異なる思想や文化の奥に、共通にして普遍の価値が存在することを、私たちに気づかせてくれます。SGI会長は、その英知を源に、世界に平和と共感の輪を広げてきました。

●学部長 一般に宗教は、自らの思想や信条の殻に閉じこもり、精神の孤島を築いてしまう傾向があります。交流が同一の共同体の人々に限られてしまえば、その視野は、おのずと狭いものになってしまいます。
 それでも人々が、特定の世界に閉じこもろうとするのは、異質な思想との交流によって自らの価値観が揺らいでしまうことを恐れるからです。
 そうした中で、SGI会長が、自身と異なる人々との対話を広げながら、新たな視野を磨かれている姿に、私は深い共感を覚えるのです。会長は、新しい思想を恐れ、排除する人ではなく、新しい思想を招き入れる達人なのです。

 ――SGI会長の対話の成功の要因はどこにあるとお考えでしょうか。

●学部長 会長の人格の真髄にある、開かれた心、純粋な探究の心にある、といえるでしょう。精神界の指導者としては、類いまれな特質です。一般に指導者は、人々に何かを教えよう、とばかり考える一方通行的な思考に陥りがちです。
 しかし、SGI会長には、相手の心を正しく知ろうとする、公平なまなざしがあります。互いに理解し合い、成長を目指そうとする、共感の心があります。ゆえに、会長の対話は、固定化した回答を与えることに終始することなく、率直で正直な問いかけに彩られたものとなるのです。
 それができるのは、会長が、深い信念と確信ある人だからです。心が不安定で、信念のかけらもない人には、決して成し得ない業(わざ)なのです。そうした人々の言は、ことさら自己の存在証明に腐心する、意図的で、作為的なものとなってしまうからです。
 会長の対話は、また、中道のスペース(空間)ともいうべき、生命の共感のオアシスを私たちに用意してくれます。孤立した人々を、理解と共感の広場に招き入れ、全ての人間が、互いに深く結びついた存在であるという真実に目覚めさせてくれるのです。
 そして私は、この一点にこそ創価学会の運動の真価がある、と評価しております。 (聖教新聞 2012-07-29)