先(まず)臨終の事を習うて後に他事を習うべし

2012年8月6日(月)更新:3
・『正法を持ち、強盛に信心を貫き通していくことこそ一生成仏の根本要件』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20140421/


【新・人間革命 厚田 四十四】
 死の解明は、宗教の使命である。そこから、いかに生きるかという人生観がつくられていく。ゆえに日蓮大聖人は、「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書一四〇四ページ)と仰せになっている。
 また、大聖人は、信心を貫き通した人は、死後も、妙法によって守られることを、譬喩を用いて、次のように述べられている。
 「けは(嶮)しき山・あしき道・つえを・つきぬれば・たをれず、殊に手を・ひかれぬれば・まろぶ事なし、南無妙法蓮華経死出の山にては・つえはしらとなり給へ、釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給うべし」(同一二二七ページ)
 〈険しい山や悪い道であっても、杖をつくならば、倒れることはない。ことに手を引かれるならば、転ぶことはない。南無妙法蓮華経死出の山では杖・柱となり、釈迦仏、多宝仏、上行等の四菩薩は、あなたの手をとられるであろう〉
 さらに、こう続けられている。
 「日蓮さきに立ち候はば御迎(おんむかえ)にまいり候事もやあらんずらん、又さきに行かせ給はば日蓮必ず閻魔法王にも委(くわし)く申すべく候」(同)
 〈日蓮が、先に霊山へ行くならば、あなたをお迎えにいくこともあるでしょう。また、あなたが先にお行きになるなら、日蓮は必ず閻魔法王にも、詳しく申し上げましょう〉
 なんと、大慈大悲にあふれた、御本仏の御言葉であろうか。
 強盛な信心を貫いているならば、どこまでも御本仏に守られ、しかも、大聖人と共にあることを明言されているのである。死は、決して恐れるべきものではないのだ。
 また、大聖人は、われらの死後の生命が、どうなるかについても、「滞り無く上上品(じょうじょうぼん)の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来って」(同五七四ページ)と仰せである。滞りなく最高の寂光世界(仏界)への往生を遂げ、たちまちのうちに、九界の生死の夢のなか、すなわち人の世に帰って来ると、明言されているのだ。 (聖教新聞 2012-08-06)