人類の平和を開く地球市民の教育

2012年10月30日(火)更新:3
【世界の知性は語る ジョージ・メイソン大学 アンドレア・バルトリ博士 SGI会長のコロンビア大学講演に感動】
 グローバル化が進む時代にあって、国家間、民族間の対立が激化する矛盾を、どう乗り越えるか――世界の紛争解決の研究で著名なアンドレア・バルトリ博士に、そのカギとなる地球市民の教育のあり方をめぐりインタビュー。池田SGI会長のコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ講演「『地球市民』教育への一考察」の意義も踏まえながら、平和創出の条件について聞きました。


《精神と学問の復権へ魂の呼び掛け》
 ――博士は、SGI会長のティーチャーズ・カレッジでの講演会に出席されました。紛争解決という専門の立場から、講演の意義をどう評価されますか。
 バルトリ博士 まず、それが“アメリカの魂”に訴え掛けた講演であったことを、高く評価したいと思います。一般にアメリカ人気質について、物質指向、金銭指向が強く、功利主義に徹している、との固定的なイメージがあります。学問の世界においても皮相的な社会の動向に関心を向け、新奇なものに価値を置く傾向が強い、との指摘もあります。
 しかし、アメリカにはデューイに代表されるような、哲学に深く根差した実用主義の気風も存在するのです。その意味で、SGI会長がデューイの思想を反映した教育の牙城であるティーチャーズ・カレッジで、アメリカの魂の根源に訴える講演をされたことに、格別の意義を覚えるのです。
 会長は、教育をテーマにしながら、単にその方法論の言及に終わることなく、人間とは何か、との奥深い視座から、教育のあるべき姿を問いかけたのです。大胆とも言うべき勇気をもって、アメリカの学術界に対して、学問の魂の復権を呼び掛けたのです。
 会長のスピーチが終わるや、私は、我が意を得たりとばかりに、起立して万感の拍手を送りました。その感動が、昨日のことのように思い起こされます。
 ――真の学習は模範の姿に学ぶことにある、と言われます。講演でSGI会長は地球市民の模範として(1)生命の相関性を深く認識しゆく「智慧の人」(2)差異を尊重し、理解し、成長の糧としゆく「勇気の人」(3)身近に限らず、遠いところで苦しんでいる人々にも同苦し、連帯しゆく「慈悲の人」の三つのモデルをあげました。
 博士 その三つの視点は、そのまま紛争解決のための重要な条件として置き換えることができるものです。ここで明確にしておきたいのは、私にとって紛争解決とは、特定の問題を解決することだけにあるのではなく、人間であることの意義を探り、究めることにあります。紛争の解決は、その真の目的に向かう、一つのステップにすぎないのです。
 今、私たちにとって、人間であることの意義を究めるために大切なのは、地球市民であることの意義を深く探ることにあります。それは、過去においては考えも及ばなかった概念であり、未来を生きる私たちへの最大の“贈り物”でもあるからです。


《真の慈悲は自他共の創造と成長の源》
 ――デューイは、人間は自らと異なる他者との交流を通して、その可能性を開発する存在である、と説いております。そこに、生命の相関性への認識こそ地球市民の教育の要件と訴えたSGI会長の思想との、深い共鳴があります。
 博士 地球市民の教育の第一歩は、自分とは異なる思想、文化に対し、開かれた心で接し、健全な好奇心を啓発していくところにあります。同時に、他者との触れあいを通し、自らを見つめ、ものごとの意義を深く問い掛ける心を育むことにあります。
 会長の相関性の思想に則して考えれば、私たちは他者と関係を結ぶことによって、自他共を、より深く知る機会が与えられる、ということにもなります。
 ゆえに私たちは、異なる人、思想、文化との交流を通して、相互を啓発し、成長を競い合いながら、世界を、さらには個々の人生を、最良のものへと創造していかねばならない――会長の講演は、私たちに、勇気をもってその実現に向かっていくことの大切さを、あらためて教えてくれたのです。
 ――SGI会長は、地球市民のモデルとして“慈悲の人”を挙げました。慈悲こそが、相関性の意義を最大に輝かせ、差異をたたえ合う勇気の源ともなるものと考えます。
 博士 真の慈悲の心を育むことこそが、地球市民の教育の最重要のカギとなります。同時に、人間存在のあり方、また、その相関性のあるべき姿を考えるうえで大切なのは、真の慈悲とは何かについて、深く思いを致すことです。
 そこにおいて、心すべきことの一つは“慈悲なき真理は、人間を抑圧する方向に働く”という事実です。例えば、他人への奉仕は、人間のあるべき生き方を示す真理です。しかし、そこに、自分は施しを与える存在であり、相手はそれを受ける存在である、との差別を設けてしまえば、奉仕の心は、他人をべっ視し、抑圧する方向に働いてしまうのです。
 逆に、真の慈悲をもって奉仕を行えば、それを受けた人の心に、感謝が生まれ、その恩を人々に返したい、との利他の精神も育まれていくものなのです。真の慈悲は、与え手も、受け手も、共々に創造的な存在へと成長しゆく道を開くものなのです。
 さらに、真の慈悲とは、他人を自分の内に迎え入れる行為です。他人を、自分の生命の一部とする心です。それは、自他を区別しようとする感情を超え、他者の存在の意義を、より深い次元で覚知しゆくなかに、生まれるものなのです。


《宗教の条件は平和貢献の是否に》
 ――宗教には、慈悲の心を育む知恵と力があります。一方、宗教が憎しみや暴力の要因として働く姿もあります。博士は、宗教が、人間と社会に健全な役割を果たすためには、どのような挑戦が不可欠とお考えでしょうか。
 博士 宗教に限らず、政治、経済、文化などの社会的な価値は、いかようにも解釈され、利用されるものです。例えば言葉は、人間を人間たらしめる精神の宝です。他方、それを誤って用いれば、暴力の手段となり、人を殺す力さえ持っております。教育もまた、人類のかけがえのない財産です。しかし、それが悪用されれば、人々を原理主義者や、体制の隷属者へと洗脳する働きもします。
 とりわけ宗教など人類的な価値が、利用され、悪用されるのは、それが何者かによってハイジャックされた時です。では、ハイジャックの現象は、いかにして、また、いかなる形をもって起こされるか。それは、ひとえに指導者が、自らの傲慢の奴隷になり下がった時です。自らを過信し、自らの力によって全てを正当化できる、との幻想に陥った時なのです。愚かしい戦争が、常に正義の名によって起こされてきたことが、その何よりの証左です。
 今こそ私たちは人間と人間を分断する手段として、また抑圧する手段として悪用されてきた宗教の負の作用に、歯止めをかけねばなりません。そのためにも、宗教を真に宗教たらしめる根本の尺度は、平和への貢献の是非にあることを、今一度、肝に銘じていくべきでしょう。
 それゆえに私は、SGI会長の世界の指導者との対話と理解を結ぶ幅広い貢献、さらに、創価学会反核の運動をはじめとする、力強く継続的な平和の活動こそ、宗教のあるべき模範を示すものとして、高く評価するのです。
   (聖教新聞 2012-10-28)