情報社会を生きる

2012年11月4日(日)更新:4
【文化 情報社会を生きる 神戸女学院大学名誉教授 内田 樹さんに聞く】
《「アラームの音」を聴こう 身体感覚を研ぎ澄ます》
■インターネットは便利ですが、顔の見えないやり取りに疲れると話す人もいます。
●私は日ごろ、若者たちに「ネット世界という仮の空間を『本籍』にしてはダメだよ」と言っています。
 それは、ネット世界では基本的に、一人一人の人間を固有の存在として識別することができないからです。
 私たちの存在基盤は生身の人間にしかないのですから、「本籍」は普通の市民社会に置くべきです。ネットは、生身の人間同士の関係を補強し、補完するための道具として使うことです。
 それでも、ネットでしか関係が保てない、生身の人間とは付き合えないという人も多くいます。隣にいる人にメールで仕事を依頼するとか、若い人には匿名を好む傾向があるようにも見えますね。
 「今は皆がそうだから」と言いますが、それでは生物として、あまりにも弱いですね。
 それは自然と直に接したことがなかったり、生身の人間と触れ合わず、ネット上のやり取りだけで関係を築いていると直感力をなくしてしまうからです。


〈世界は生々しく動いている〉
■なぜ、直感力が大切なのでしょうか。
●世界は生々しく動いています。その動きにある固有の法則とか方向性を知ることは、生きる上での判断や決断を助ける素材になる。
 でも、その法則や方向性は、事が過ぎた後にようやく言葉になるものであって、動いている最中は言葉にならないものです。
 たとえば新聞報道を並べて見ても、それだけでは、今、起こっていることの意味、これから起こることは、まったく分かりません。「文脈」は自分で見つけるしかないのです。
 かといって、外的な根拠やデータだけを判断基準にしていると、何かあるたびに「ちょっとデータを入れ違えたかな」と後戻りばかりして、失敗を教訓として生かせない。
 また、膨大な情報にまみれて事の真贋(しんがん)が見分けられなかったり、優先順位が付けられなくなって混乱する。結果として、誰かが「こっちだ」と言うとワッとこっちに行き、「あっちだ」と言うとワッとあっちに行く。声の大きい人について行く。皆が行く方について行く――そんな感じで物事を考えてしまうことになります。
 これでは危ない。文字通り、生命体として生き延びられないし、友達や先輩もいない、師も弟子も得られないという孤立した存在になってしまいます。


〈判断や決断を助ける「直感力」〉
■どうすれば直感力が身につきますか。
●「アラームの音」を聴くのです。「アラーム」とは、命の力が高まるか下がるかを示す針です。言葉にならない「身体実感」です。自分の体が、完全に自然と調和しているという体感です。
 生命力が弱まるような環境に置かれると、アラームは鳴り始めます。現代人の多くは、始終、アラームが鳴るような生活の中にいるのですが、ほとんどの人が普段は無意識のうちにオフにしてしまっています。
 でも、このアラームは、誰もが自分の身体実感として持っているもの。その体感を思い出せばいいのです。
 それは体全部が、世界と調和し、最もバランスが良く、生物として「何て気持ちいいんだろう」と感じた瞬間です。
 私の周りには「10歳から15歳ぐらいの間で、水の中にいる時」と言う人もいますが、「何て気持ちいいのだろう」と感じた瞬間やその時の様子は一人一人違います。けれども、誰もが経験していることなのです。

■自分の経験の中に備わっている、ということですね。
●そうです。これが、日本の伝統的身体文化の大きな特徴です。これは中世に始まった武道や能から、「自然や環境と一体になる」という点も見いだすことができます。
 日本の侍の原点というと源氏と平氏になりますが、両者には非常に特徴的なことがあって、平氏は海の民、源氏は山の民なのです。平氏は舟を、源氏は馬を操ります。
 つまり、海の力や動物の力という、人間の外にある自然の力を、人間の体につないで発現するわけです。
 なるべく多くのものを取り込み、体を通過していくよう、身体感覚を深化させ、研ぎ澄ませていく。
 自分を表現するのではなく、自分を媒体にして、自然の大いなる力を発現する。そうやって、周りの世界や環境と調和していく。
 このような身体観、身体文化は、日本が誇るべき人間観の表れでもあるのです。
   (聖教新聞 2012-10-31)