何があっても信心を貫き通すことが、仏法における正義

2013年1月14日(月)更新:3
・『己心を貫く生命の大法に従って生きるのが仏法者 』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20150618


【新・人間革命 法旗 三十四】
 山本伸一は、入会以来、さまざまな先輩幹部を見てきた。会合では壮士気取りで大言壮語するものの、酒や金銭等にだらしなく、乱れた生活の人もいた。また、威張り散らし、多くの後輩の心を傷つける人もいた。地道な活動をせず、要領よく立ち回る人もいた。
 だからこそ伸一は、自分の手で、“これが本当の創価学会だ”といえる組織をつくろうと、心に誓ってきたのである。
 悪い先輩幹部を引き合いに出し、自分の信心の後退を正当化したとしても、結局、損をして苦しむのは自分である。相手が悪いから自分が正しいというわけではない。何があっても信心を貫き通すことが、仏法における正義であり、そこにこそ自身の人間革命も、宿命の転換も、幸福境涯の確立もあるのだ。
 ゆえに、大聖人は、「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(御書二三二ページ)と仰せなのである。
 すべての幹部は、信心強盛で、人格的にも立派で、社会的にも大きな信頼を勝ち得ていることが望ましい。しかし、多くは、それをめざして懸命に戦っている途上である。
 それゆえに、互いにぶつかり合うこともあろうが、強い心で、広い心で、相手を包み、団結に努め、広宣流布に突き進んでいくのだ。そのなかに自身の成長がある。
 末法仏道修行の場は、荒れ狂う人間群の中にある。人の一挙手一投足に左右されるのではなく、心に師をいだき、正法を信じて、自身の一生成仏、人間革命をめざして、学会活動に邁進していくのだ。
 「涅槃経」に雪山童子の説話が登場する。――雪山で菩薩道の修行をしていた彼の前に、飢えた羅刹(鬼)が現れ、仏の説いた偈の半分だけ聴かせる。雪山童子は羅刹に、さらに半偈を聴くことを求め、教えてくれれば、わが身を与えると約束する。そして、半偈を聴いた後、木の上から身を投げ出し、羅刹に与える。すると、羅刹は帝釈天の姿に変わって彼を受け止め、その不惜身命の姿を讃えて、未来の成仏を説くのである。
   (聖教新聞 2013-01-14)