因果の理法に照らし仏法の為に苦労すればするほど大福運を積んでいく

2013年1月17日(木)更新:1
・『何があっても信心を貫き通すことが、仏法における正義 』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20150627


【新・人間革命 法旗 三十五】
 雪山童子の仏教説話で見落としてはならないのは、童子が身を投げ出した相手が、羅刹(鬼)の姿を現じていたということだ。
 そこには、法を求めるうえで、相手の人格や、社会的な地位や立場などによって、紛動されることがあってはならないとの、戒めの意味が含まれていよう。相手が、羅刹であろうが、誰であろうが、迷うことなく、一心不乱に法を求めて、突き進むなかに、成仏得道があるのである。
 一方、「大智度論」には、乞眼の婆羅門(司祭階級)の説話がある。
 ――舎利弗が菩薩道の修行をし、布施行に励んでいた時、婆羅門が来て舎利弗に眼を布施するように求めた。舎利弗は自分の眼の一つを抜いて与えたが、婆羅門からは、感謝の言葉さえなかった。それどころか、その眼の臭いを嫌って、唾をかけ、地に捨て、しかも、足で踏みにじったのである。
 舎利弗は、愕然とした。“こんな人間を救うことはできない!”と、菩薩道の修行をやめてしまうのである。
 自分の行為や実績に対し、相手や周囲がいかに評価し、賞讃してくれるか――それによって、張り合いをもち、頑張ろうとするのは人情といえよう。また、健気に、懸命に努力している人に光をあて、讃え、励ましていくことは、リーダーの責任でもある。
 しかし、たとえ自分が正しく評価されず、賞讃されることがなかったとしても、リーダーや周囲の人を恨んだり、意欲を失うようなことがあってはならない。自分の功徳、福運を消し、成長を止めてしまうからだ。
 仏道修行は“己心の魔”との戦いであるといえる。“魔”はあらゆる手段を弄して、健気に信心に励もうとする人の意欲を奪い、心を破ろうとする。時には“なんで自分ばかりが、こんなに苦労しなければならないのだ”との思いをいだくこともあるかもしれない。
 だが、御本尊は、すべてご存じである。生命の因果の理法に照らし、仏法のために苦労すればするほど、大福運を積んでいくのだ。
■語句の解説
 ◎舎利弗釈尊十大弟子の一人。“智慧第一”とされ、法華経方便品では釈尊の説法の聴衆の代表となり、譬喩品では未来に華光(けこう)如来として成仏すると説かれた。
   (聖教新聞 2013-01-15)