教学 唱題の実践で「無限の力」を発見

2013年1月24日(木)更新:5
【2月度「御書講義」の参考 法華初心成仏抄 御書全集557ページ3行目〜13行目 編年体御書1069ページ3行目〜13行目】
〈背景と大意〉
 本抄は、著された年月日、与えられた人物についての詳細は不明です。特に、阿弥陀信仰の浄土観を破折し、女人成仏に言及されていることから、かつて念仏を唱えていた女性信徒か、あるいは、いまだ念仏への未練を残している女性に対して、法華経信仰の基本を教えられた書であると推察されます。
 題名の「法華初心成仏抄」について、「法華」とは、一往(いちおう)は法華経の意ですが、再往(さいおう)は、南無妙法蓮華経をさしています。「初心」とは、初めて発心し、仏道を志すことをいいます。本抄後半で末法の初心の行者(末法衆生)が妙法によってのみ成仏できると明かしていることから、後にこの題名が付けられたとされています。
 本抄は、問答形式によってさまざまな宗教の正邪を論じられた上で、法華経こそが仏の本意を明かした経典であり、悪世末法においては、法華経28品の肝心である南無妙法蓮華経のみが、弘めるべき成仏の根本法であることが明かされます。
 次に、「よき師」と「よき檀那(法華経を持つよき人)」と「よき法」の三つが寄り合ってこそ祈りが叶い、国家の大難も払うことができると仰せになっています。
 また、仏法に無智の人も法華経によってのみ成仏できるのであり、強盛に弘教に励むよう勧められています。
 ここで、「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし」(御書552ページ)と述べられています。日蓮大聖人は、難を恐れず、どんな人にも誠実に仏法を語り抜くことが大切であると教えられていると拝されます。
 また、仏法を聞いた相手は、素直に信じれば成仏の境涯を得ることができ、ひとたびは反対する人も「毒鼓の縁」によって必ず成仏の因を刻むことができると仰せになっています。
 次に、末法法華経を持ち、弘める人には、三類の強敵が出現して怨嫉し、迫害することが明かされます。
 大聖人は、三類の強敵が競うことは、経文に説かれた通りであり、難を恐れることなく、さらに信心に励んでいくよう勧められています。そして、三類の強敵に遭いながらも弘教を貫く者こそ、真実の法華経の行者であると教えられています。
 結びに、南無妙法蓮華経の唱題行によって己心の仏性が呼ばれて現れることを示されるとともに、我慢偏執の心を捨てて、強盛な信心をもって唱題に励むよう呼び掛けられ、本抄を結ばれています。


妙法蓮華経の題目》
 池田名誉会長はかつて、仏教の卓越性について次のように語りました。「仏教が、それまでの思想・宗教と大きく一線を画(かく)す点は、一個の人間の内に、無量の苦悩を根本から解決する『法』、すなわち『無限の力』を発見したことです」と。
 この「無限の力」の発現を信じ、苦悩を打ち破って、ゆるぎない幸福を築く智慧を得た人が「仏」です。
 では、末法衆生が「成仏」する、つまり仏の境涯を開くためには一体、何が必要なのでしょうか。その方途として大聖人は、唱題行を確立されました。
 大聖人が開拓された万人成仏の道の第一歩は、「法」に名前をつけられたことです。
 もともと「法」に名前はありません。この「法」を自身の生命の中に発見した聖人が、それに最もふさわしい名前をつけるのです。このことは「当体義抄」に「至理(しり)は名無し聖人理(ことわり)を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之有り之を名けて妙法蓮華と為す」(御書513ページ)と記されています。
 大聖人は、「法」に「妙法蓮華経」という名前をつけられました。そして、その名を唱えることを末法仏道修行として位置づけられたのです。
 通途(つうず)の仏教において信仰・帰依の証しとして唱えられるのは、多くの場合、仏・菩薩の名前でした。よく知られる例は、阿弥陀仏の名を唱える念仏です。
 しかし、唱題行においては、「法」の名を唱えます。
 厳密に言えば、「妙法蓮華経」という言葉自体は法華経の経典の題名として存在していました。しかし、大聖人は次のように述べられています。
 「所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計り思へり、さにては候はず体(たい)なり体とは心にて候」(同1059ページ)
 大聖人は御在世当時の人々は、妙法蓮華経とは単に経典の名称にすぎないと思っているけれども、そうではなく、法華経の“体”であり“心”である、と。
 題目とは、「法」そのものです。
 今回学ぶ「法華初心成仏抄」の中で大聖人は、「我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊弥勒等の仏性と3世の諸仏の解(さとり)の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり」(同557ページ)と仰せです。「一体不二」とは、全く差別がないという意味です。
 妙法蓮華経とは、あらゆる仏が覚った「妙法」の名であり、全ての生命に普遍的に具わる仏性の名でもあるのです。仏の覚りの智慧によって名づけられた仏性の完全なる名前が妙法蓮華経にほかなりません。
 したがって、私たち衆生に具わる仏性も、二乗・諸天善神・菩薩に内在する仏性も、仏が覚った妙法も、全く同じであるゆえに、私たちがひとたび、仏性の名である題目を唱えれば、自分自身の仏性はもとより、一切衆生の仏性を呼び現していくことができます。
 私たちの実践に照らして言えば、今、ここに生きている自分が、たとえどのような境涯にあったとしても、自身の仏性を呼び現すことができるということです。さらに、自分の仏性だけでなく、自身をとりまく全ての人々の仏性をも呼び現し、この現実世界を輝かせていくことができるのです。


《諸天善神の守護 仏性を呼び現し現実世界を輝かせ》
 大聖人は「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ」(御書557ページ)と仰せになっています。すなわち、私たちが妙法の題目を唱えれば、必ず諸天善神が呼ばれて、私たちを守護するというのです。
 諸天善神の守護とは、妙法の力用の顕現です。仏法では、太陽や月、梵天帝釈天など、人々に利益を与えるさまざまな働きを諸天善神といいます。
 法華経安楽行品第14には「諸天は昼夜に、常に法の為(た)めの故に、而(しか)も之れを衞護(えご)し」(法華経440ページ)と、諸天善神が妙法を信じ、弘教を実践する人を守護することが述べられています。
 もちろん、諸天善神といっても一定の実体を持つものではありません。
 「元品の法性は梵天・帝釈等と顕れ」(御書997ページ)と仰せのように、私たちの生命に具わる覚りの生命(元品の法性)が梵天帝釈天という諸天善神の働きとなって顕現するのです。
 それでは、具体的にどのような実践によって、諸天善神の働きは起こるのでしょうか。
 仏法には「内薫外護(ないくんげご)」という法理があります。
 「内薫」とは、生命の内側から仏性が薫り出てくることです。また、香を炊くと衣服などに自然に香りが移っていくように、仏性の薫りが次第に自分の生命に定着していくことでもあります。
 「外護」とは、内薫に引かれて、他の生命の仏性が働きはじめるなどして、外から守る働きが現れることです。
 すなわち、仏性の「内薫」によって、諸天の守護を呼び起こすことができるのです。
 換言すれば、諸天善神を動かすのは、どこまでも私たちの信心の一念です。強き信心の一念で無明を打ち破った時にこそ仏性が薫り出てくるのです。
 ゆえに大聖人は、妙楽大師の「必ず心の固きに仮りて神の守り即ち強し」の釈を踏まえて、「人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ」(同1220ページ)と述べられています。
 広宣流布に生き抜く、強盛な信心を貫く人のうえにこそ、諸天善神の働きが厳然と現れるのです。
   (聖教新聞 2013-01-22)