(4)緊張緩和と関係緊密化へ 「日中首脳会談」を定期開催

2013年2月3日(日)更新:6
〈国交正常化40周年に高まった緊張〉
 最後に、平和と共生の地球社会の建設というテーマに関連して、緊張が続く日本と中国の関係改善と未来の展望について、私の考えを述べておきたい。
 昨年は、日中国交正常化40周年という節目の年であったにもかかわらず、かつてないほどの緊張と摩擦が高まり、日中関係は戦後最悪の状態に陥ったとさえ言われます。
 実際、40周年の意義をとどめる行事や交流計画の中止と延期が相次いだほか、経済の面でも関係は大きく冷え込みました。
 しかし私は、日中関係の未来を決して悲観しておりません。
 なぜなら日中の友好は、国交正常化の前から、「涓滴(けんてき)岩を穿(うが)つ」の譬えの如く、心ある先人たちが一滴また一滴と、両国の間に立ちはだかる頑強な岩盤を穿ちながら切り開いてきたものであり、今日まで長い歳月を通じて堅実に積み重ねられてきた友好交流の絆の重みがあるからです。
 私が国交正常化の提言を行った当時(1968年9月)は、中国との友好を口にすることさえ憚られる空気があり、ある意味で、現在以上に厳しい状況にあったともいえます。しかし、隣国との友好なくして日本の未来はなく、日中関係の安定なくしてアジアと世界の平和も開けないというのが私の信念でした。
 提言発表から6年後(1974年12月)、北京を訪問し周恩来総理とトウ小平副総理にお会いした時、お二人が“中国の人民だけでなく日本の民衆も、日本の軍国主義の犠牲者である”との思いを抱いていることを痛感した私は、「戦争の悲劇を二度と起こさないために、民衆と民衆との崩れざる友誼の橋を何としても築き上げるのだ!」との決意をさらに深くしました。


〈友好の纜(ともづな)を断じて離してはならない〉
 以来、今日まで私は、若い世代を中心とした友好交流の推進に情熱を注ぎ続けてきたのです。
 国交正常化後、中国から初の国費留学生6人を、私が身元保証人となり、創価大学にお迎えしたのが1975年でしたが、歳月を経て、今や中国から年間10万人の留学生が日本で学び、中国では1万5000人の日本人が学ぶ時代が到来しています。
 その他にも、文化や教育などさまざまな分野での交流をはじめ、両国の地方自治体が結んできた349に及ぶ姉妹交流の広がりや、四川大地震東日本大震災で互いの国が苦難に陥った時に助け合ってきた歴史があり、何度か緊張が生じても友好の水脈は着実に水嵩を増してきたのです。
 この水脈に注がれてきた一滴一滴は、顔と顔が向き合う“一対一の心の交流”を通じて育まれてきた友情の結晶に他ならず、どんな試練や難局に直面しても容易に枯渇してしまうものではないし、断じてそうさせてはならないとの思いを強めています。
 私は以前、北京大学での講演(「教育の道 文化の橋――私の一考察」、1990年5月)で、「両国の間にいかなる紆余曲折が生じようと、私たちは断じて友好の纜から手を離してはならない」と呼びかけました。まさに今が、その一つの正念場であると思えてなりません。 政治と経済の分野では、大なり小なり波が起こるのは歴史の常です。穏やかで凪(なぎ)のような時は例外的であるかもしれません。
 ゆえに大切なのは、日中平和友好条約で誓約した「武力または武力による威嚇に訴えない」「覇権を求めない」との2点を、どんな局面でも守り抜くことではないでしょうか。
 その原則さえ堅持していけば、たとえ時間はかかっても乗り越えるための道は必ず見えてくるはずです。むしろ順調な時よりも逆境の時のほうが、両国の絆をより本格的に深める契機となる可能性がある。


《東アジア環境協力機構を設立し 青年が力合わせ行動する時代を》
〈胸襟を開いた対話を粘り強く〉
 そこで、現在の状況を乗り越えるために、平和友好条約の二つの誓約の堅持を再確認した上で、“これ以上の事態の悪化を招かないこと”を目的にしたハイレベル対話の場を早急に設けることを求めたい。
 その場でまず、「緊張を高める行為の凍結」についての合意を図り、その後、対話を継続していく中で、今回の対立に至った経緯を再検証し、互いの行動が相手側にどう映り、どんな反応を起こしたのかを冷静に分析しながら、今後の危機回避のためのルールづくりに取り組んでいくべきではないでしょうか。
 もちろん、対話の過程で激しい意見の応酬は避けられないと思います。しかし、それを覚悟の上で向き合わなければ、両国の関係回復はおろか、アジアの安定、そして世界の平和は遠ざかるばかりです。
 思い返せば、冷戦終結まもない頃、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領にお会いした時(1990年7月)、私は開口一番、「きょうは、大統領と“けんか”をしにきました。火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう。人類のため、日ソのために!」と切り出しました。
 このような言葉の表現をあえて行ったのは、日ソ関係が不透明な中、“儀礼的な会見に終わらせず、本音で語り合いたい”との思いを伝えたかったからに他なりません。
 状況が厳しければ厳しいほど、胸襟を開いて話し合うことが大切ではないでしょうか。平和共存を目指すという大前提に立った、真摯な意見の火花散る対話は、互いの主張の奧にある「相手がどのようなことを懸念し、何を最も重視しているのか」という心情を浮き彫りにする上で欠かせないプロセスです。
 私はそのことを踏まえて日中首脳会談の定期開催の制度化を呼びかけたい。
 今月、フランスとドイツが「エリゼ条約」を調印して50周年を迎えました。
 両国の間には、何度も戦火を交えた歴史がありましたが、首脳会談を年2回、外務・国防・教育の閣僚の会合を年4回行うことなどを定めた同条約によって、関係の緊密化が大きく前進しました。
 日本と中国も、かつてない難局に直面した今だからこそ同様の制度を設けて、どんな状況下でも両国の首脳が顔を合わせて話し合える環境づくりをしておくべきだと思うのです。
 そして、まずは2015年に向けて、「平和共存」と「人類益のための行動の連帯」を基軸にした新しいパートナーシップ関係を構築することを望みたい。
 具体的な構想の一つとして、例えば、日中両国が共同で主導する形で「東アジア環境協力機構」の設立を目指していってはどうでしょうか。
 環境の改善は双方にとって「共通のプラス」となるものであり、私はその機構の活動を通して、日中の青年たちが一緒に行動できる機会を積極的に設けながら、東アジア地域の平和と安定はもとより、「持続可能な地球社会」の創出のために、両国が共に貢献する流れをつくり出すべきだと訴えたいのです。
 私は45年前(1968年9月)に行った国交正常化提言で、「日本の青年も、中国の青年もともに手を取り合い、明るい世界の建設に笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない」と呼びかけましたが、その礎となるものは、これまでの交流を通し、さまざまな形で育まれてきたのではないでしょうか。
 今後の焦点は、青年交流をさらに活発に進めつつ、これまで育まれてきた友好の礎を、いかに具体的な協力へと発展させていくかにあると思います。
 そのためにも、中長期的な観点に立って、両国が互いに協力できる分野を一つまた一つと開拓し、整備していくことが重要であり、こうした挑戦の積み重ねの中で、日中友好の絆は世々代々と受け継がれ、崩れないものとなっていくと、私は確信するのです。

〈牧口初代会長が洞察した社会観〉
 以上、2030年に向けたビジョンと行動目標について論じてきましたが、平和と共生の地球社会の建設を進める上で欠かせないのが民衆の連帯です。
 創価学会牧口常三郎初代会長は大著『創価教育学体系』で、なぜ一部の例外を除いて、より良い社会を目指して立ち上がった人々の多くが挫折を余儀なくされてしまうのか、その背景について、次のように考察していました。
 「善人は古往今来(こおうこんらい)必ず強大なる迫害を受けるが、之れを他の善人共は内心には同情を寄するものの何等の実力がないとして傍観するが故に善人は負けることになる」と。
 つまり、善人たちが迫害を受けていることに同情はしても、自分には何も力がなく彼らを支えることはできないと考え、最終的に傍観してしまう人々は、生き方の底流に「単なる自己生存」の意識しかないため、「社会の原素とはなるが結合力とはなれず、分解の防禦(ぼうぎょ)力ともなり得ぬ」と、問題の所在を明らかにしたのです(『牧口常三郎全集第6巻』第三文明社、現代表記に改めた)。
 この悲劇の流転を断つために、牧口初代会長は戸田第2代会長と創価学会を創立し、「単なる自己生存」ではなく「自他共の生命の尊厳」を求めて行動する民衆の力強い連帯の構築に立ち上がりました。
 現在、その民衆の連帯は192カ国・地域に広がっています。
 「持続可能な開発目標」の推進という国際社会の協力において大きな節目となる2030年は、創価学会の創立100周年にもあたります。
 私どもSGIは、この2030年に向けて、平和と共生の地球社会の建設というビジョンを共有する人々や団体と力を合わせながら、グローバルな民衆の連帯を幾重にも広げていきたいと思います。
   (聖教新聞 2013-01-27)