必ず幸せになるよ!

2013年4月6日(土)更新:3
【太陽の励まし 池田名誉会長と誓いの同志(とも)〈25〉富山】
《響くような大声》
●指導会は質問の時間となった。同志に促されて、とよ子さんも手を挙げた。
 当てられると、思わず舅への不満が口をついて出た。
 「この信心したって、ちょともいいことない」
 間髪をいれず、名誉会長が答える。「絶対に幸せになります!」
 会場の外まで響くような、大きな声だった。
 そして「奥さん、あなたが悪い!」「舅さんがお風呂に入った時、背中の一つも流したことがありますか?」
 「ご主人は?」。名誉会長が聞くと、後ろから明信さんが「はい」と顔を出した。
 その後、明信さんに語り掛ける声は、うってかわって優しかった。
 とよ子さんには、その激励の鮮やかさが忘れられない。「本当は優しい先生が、あえて私には厳しく言われたんだって、後から気付きました」
 不幸を他人のせいにする愚痴の命を、名誉会長は断ち切ろうとしたのである。
 「この信心だけは間違いないよ」
 最後に言った名誉会長の一言が、家族の原点になった。
 舅の反対は長く続いたが、次第にわだかまりが解け、最後は一緒に題目を唱えるほどの理解者になってくれた。
●82年(昭和57年)9月11日、同会館に到着した名誉会長は、すぐに正面から入らず、藤棚や花壇、池に彩られた庭園に向かった。
 庭の草を刈り、睡蓮やサルビアの花を咲かせたのは釈永さん夫妻だった。
●管理者を退いた夫妻は今、富山市内で、自宅を広布の会場に提供している。
 明信さんが声を弾ませた。
 「青年部にも、好きなだけ使ってもらってます。『じいちゃん、ばあちゃんの所に来いよ』って。若い青年が寄ってくれるのがうれしい。
 体が動くまで、“管理者精神”で頑張ります!」

《勉強するんだよ》
●76年(昭和51年)11月14日、富山文化会館での勤行会。
 幼いころからピアノを習っていた利田さんは、会合の“ピアノ担当”3人のうちの1人に選ばれた。会合の予定にはないが、いつでも演奏に対応できるよう、ピアノの側に待機していた。
 結局、披露する機会はないままに終わった。だが、会合が終わると、名誉会長がピアノの方に近づいてきた。
 そして、「この曲は知ってる?」「これは?」と語り掛けながら、次々と曲を弾いてくれたのである。
 「何年生?」と名誉会長が尋ねる。
 利田さんは「高校3年生です」と答えた。
 「そうか、しっかり勉強するんだよ」。言い置くような、力強い声だった。
 当時、母が病に倒れ、大学受験に弱気になっていた利田さんは、考えを変えた。「池田先生に勇気をもらったんです。泣きそうな時も、あの声を思い出して頑張りました」
●84年(同59年)8月23日、富山文化会館を訪問した名誉会長に女子部の一員として、あいさつする機会があった。
 館内を視察していた名誉会長は、利田さんを紹介されると「知ってるよ。みんな分かっているよ」と。
 翌24日の青年部勤行会で利田さんは、名誉会長が「富山を頼むよ」、そして「今、とても大切な仕事をしているんだ」と話すのを聞いた。
 25日付の聖教新聞を見て、驚いた。名誉会長の提言「教育の目指すべき道――私の所感」が発表されていたのだ。これが、利田さんの教育者人生の礎となった。
●「先生に教えていただいたのは、『一人を大事にする』『どんな人にも、無限の可能性を持った一人の人間として接する』ことです。私自身がそうしていただいたように。
 不登校や進路や人間関係に悩むいろんな生徒に関わりましたけど、掛ける励ましは、最後は池田先生の言葉です。私の血肉になっているんです」
●82年の訪問での、声と筆を使った励ましの勢いは、北陸の同志の語り草である。
 「あとで、私が使った机を開けてごらん」
 9月13日、富山文化会館をたつ名誉会長が言い残した。
 そこにあった色紙には、躍るような筆で記されていた。
 「師弟不二」――と。
   (聖教新聞 2013-04-05)