命の絆の 大田かな

2013年4月26日(金)更新:4
【太陽の励まし 池田名誉会長と誓いの同志(とも) 〈28〉 東京・大田】
●「きょうは一番うれしい日です」「こちらに着く前も、懐かしい故郷のあちらこちらを回ってきました」
 東京・大田の同志に語る池田名誉会長の顔は、笑顔でいっぱいだった。
●婦人部から撮影が始まる。名誉会長は、席に座ると、スーツのポケットから白い紙を取り出した。
 「きょうはね、朝早く起きて、句を作りました」
 「奥さんに『そんなにたくさん、いっぺんに作らなくてもいいじゃありませんか』って言われたんだけどね」
 名誉会長の声が響いた。
 「故郷(ふるさと)の 友どち懐かし 撮影会」「故郷に 広布の原点 五月晴れ」「どこよりも 命の絆の 大田かな」――次々と読み上げられた句は、10句にも。川柳も“おまけ”に一句、披露された。
 新宿区信濃町に居を移すまで、目黒区三田に数ヵ月住んだほかは、ほぼ38年を過ごした、青春の思い出の大田。

〈原点の兄弟会〉
●「諸君が、後継者となって学会を支え、広宣流布の闘争に二陣三陣と続いてもらいたい」。撮影会で、名誉会長は青年たちに呼び掛けた。
●「あの日からです。大田で戦う使命を感じたのは」●「当時は今より工場が多くて、午後8時くらいには人通りもなくなる。正直、あまり明るい印象を感じなかった」
 その気持ちが、撮影会で一変した。「先生は本当にうれしそうでした。おばあちゃんや役員に盛んに声を掛けられて。一つ一つの振る舞いに、家族のようにあったかいものを感じました。なんて人間的な指導者だろう、と」
 名誉会長が詠んだ句を、暗誦(あんしょう)して繰り返し読んだ。「そのたびに、先生の大田に対する思いが胸に迫りました」
●「3人とも、先生が大好きな子に育ってくれました。それが一番の功徳です」
 「師匠と私たちは、深い命の絆で結ばれている。それを確信すれば、すごい力が出せる。それを先生は、40年前に教えてくださいました」

〈小林町の思い出〉
●名誉会長夫妻が、55年(昭和30年)6月から11年間住んだ旧・小林町の小さな家。ここを“港”として名誉会長は、「大阪の戦い」、第3代会長の就任式、そして世界広布の旅へ打って出た。
●名誉会長夫妻が越してきた当時のことをよく覚えている。
 「あれは、ブロック制が敷かれて間もない昭和31年3月のことでした」
 ブロック長だった夫の富三さん(故人)に名誉会長夫妻の住所や連絡先を記したカードが届いた。「本当にお恥ずかしい話ですが、私たちは入会して日も浅く、『池田大作』という人がどんな方か、知らなかったんです」
 毎週水曜日に開く座談会に誘おうと、夫婦で小林町の家を訪ねた。当時、青年部の室長だった名誉会長は不在で、香峯子夫人が応対した。
 「ご主人は?」と富三さん。「主人は忙しくて……」。香峯子夫人が答える。
 富三さんが言った。
 「忙しいでしょうが、ご主人にも座談会に出るように言ってください」
 乃婦子さんは振り返る。
 「もう、信じられないでしょ。でも、奥様はすごいですよね。ニコニコしながら『分かりました。池田にそう申し伝えておきます』って」
 しばらくして再訪すると、「きょうは主人がいますからどうぞ」と、香峯子夫人が夫妻を部屋に通してくれた。
 「さあ、ご主人はどんな人だろうと待っていると、先生が現れました。『僕を座談会に誘ってくれたのは、あなたたちかい?』って。
 そして、『じゃあ今度、出させていただくね。来週の水曜は出られないけど、再来週の水曜に出よう』とおっしゃってくださって。今思えば、『大阪の戦い』の真っただ中の時でしょう。申し訳ないやら、恥ずかしいやら」
 名誉会長は約束を守り、4月4日、根岸さん(同区、副支部長)宅の座談会に出席。集った7人の壮年を、こう励ましてくれた。「広宣流布の“七人の侍”となって古川富三ブロック長を支え、団結して戦ってください」
 乃婦子さんが続ける。
 「実は、先生の家で初めてお会いした時、先生が私に対してピシャッとおっしゃったんです。『あなたは、世界一お題目の少ない人だ』って。
 なんてことを、と思いました。お題目は、たくさんあげていましたから。でも先生は、貧乏ゆえに卑屈で弱かった私の一念を見抜かれ、あえて言われたんですね」
 その指導の意味を知る出来事が、59年(同34年)に起こった。6歳の長女・恵子さんが交通事故に遭い、意識不明になったのだ。
 香峯子夫人が乃婦子さんのもとへ飛んできた。「お題目をあげましょう!主人にも伝えます」
 翌日、再び訪ねると、「古川さん、ここに座って」。
 そして、毅然と言った。
 「主人から伝言を預かりました。『これくらいで信心の歩みを止めてはいけません』とのことでした」
 乃婦子さんは語る。
 「もう、びっくりしました。先生の言葉が頭の中を駆け巡りました。それから3日間、今までにないくらいに真剣に題目をあげました。
 恵子は意識を取り戻しました。“これが先生のおっしゃっていたことか!”と思った。それからは確信に燃えて、折伏に、学会活動に走りました。信心のおかげだ、先生と奥様のおかげだって」
 思い出は尽きない。
 「奥様によく『家庭指導に一緒に行ってください』って頼んでましたね。いつも奥様は快く『行きましょう』って、前掛けをパッととられて。都合が悪いなんて、一度も言われた記憶がないんです」と、乃婦子さん。
 79年(同54年)、名誉会長が第3代会長を辞めたと聞いた時は、悔しくて悲しくて、香峯子夫人に手紙を書いた。
 まもなく返信が届いた。
 「驚かせてしまいましたこと申し訳なく思っております。私共(わたくしども)一家にとりましては、どうなっても、大田区は、小林町、道塚町は『ふるさと』です。又、行かせていただきます。今まで以上に信心根本に、学会を守り、御一家の繁栄に御活躍下さいますことをお祈り申し上げます」
●名誉会長は、小林町の思い出を「随筆 新・人間革命」に綴っていた。
 「わが家から少し離れたところに、学会員のご夫妻がおられた。雨で家の前の道に水があふれた時など心配して、よく様子を見に来てくださった。私たちが、今も感謝の心で忘れることのできない同志である」
 古川さん夫妻のことであった。
 2002年(平成14年)8月には、和歌が届いた。
 「青春の あの日あの時 わが家をば 守りし君らを いかでか忘れじ」
 名誉会長夫妻は、大田のことを忘れない。共に戦った同志を忘れない。故郷の全ての友が幸福を楽しみ、晴れ晴れと勝利の旗を掲げゆく日を、信じ、待っている。
   (聖教新聞 2013-04-23)