わが友・寸鉄・御書活・いまを刻む・地域社会圏の提案・介護 他

2013年6月1日(土)更新:1
【わが友に贈る】
リーダーは
 報告や相談に対して
 電光石火の対応を!
 迅速・誠実の行動で
 広布は勢いを増す。
   (聖教新聞 2013-05-28、以下同)


【前進!正義の心で 板橋(東京)原田会長と記念の大会、神奈川婦人部が元気に】
●「“対話の英雄”の誇りを胸に大誠実の声で圧倒的な善の連帯の拡大を」(原田会長)
●「師弟共戦の祈りで前進を」


寸鉄
アメリ創価大学で晴れの卒業式。人類貢献の英才が世界の大舞台へ飛翔
●宮城婦人部の日。母の祈りに勝るものなし。皆が希望広げる福光の太陽に
●学会は校舎なき総合大学―恩師。日々の学会活動こそ幸福博士の直道なり
●闘いの中に飛び込むんだ待ってちゃだめだ―文豪(ロラン) 青年は率先の行動で光れ
●各地で火災多発!火の元注意、建物周辺には可燃物置くな。心の守り固く


【6月度 男子部「御書活動者会」研鑽のために 異体同心事】
《団結の底力を示す時は今》
〈御文〉
 異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定(さだま)りて候、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ、(中略)日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし (御書1463ページ)

〈通解〉
 異体同心であれば万事を成し遂げることができるであろうが、同体異心であれば諸事万般にわたって叶うことはないであろう。このことは、外典の三千余巻の書物にも定まっていることである。殷の紂王は、70万騎であったが同体異心であったので、戦いに負けてしまった。周の武王は、わずか800人であったけれど、異体同心であったので、勝ったのである。(中略)日蓮の門下は異体同心であるので、人々は少ないけれども、大事を成し遂げて、必ず法華経が広まるであろうと考えるのである。悪は多けれども一善に勝つ事はない。

〈師と同じ心で正義を叫べ〉
●異体同心の団結を築くためには、どうすればいいのか。
 まずは、一人一人が「広宣流布」という大目的に向かって祈り、「師と共に」との一念を定めていくことだ。
 「誰か」ではなく「自ら」が立ち上がり、広布拡大の先陣を切り開いていくことだ。
 そして、どこまでも同志と力を合わせ、互いに励まし合いながら進むことである。
●「『異体同心』の『心』とは『広宣流布を願う心』です。『同志を尊敬する心』です。『師子王の心』です。その究極は『師弟不二の心』です」(名誉会長)
●必ず師の構想を実現してみせる!――この決定した弟子の誓願こそ、異体同心の要である。そこに、“勝利の扉”は開かれる。
 さあ、我らの団結の底力を示す時は今。師の心を我が心として、堂々と正義を語り抜き、善の連帯を大きく広げていこうではないか!

《師恩に報いる 不惜身命で広布に邁進》
●「仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」(御書192ページ)
●なかでも根本の恩とは、仏法を教え、人生の規範を示す「師匠の恩(=師恩)」である。
●「師恩に報いるための要諦は何か。不惜身命で広宣流布のために戦うことである」(先生、以下も)
●「勝って見(まみ)える師弟ほど深く幸福なものはない」


【いまを刻む 新生東北 第4回 宮城県名取市閖上
《本音を聴き続け 自らの体験を語り 心をつないで》
〈思い出す〉
●「ここの人は、浜の気性で、“閖上人(ゆりあげじん)”という意識も強い。池田先生が昭和57年8月に『南雲会館』(個人会館)を訪問して、どこまでも一人を大事に、と教えてくださったことが、地域の信心の柱です。一人残らず幸せになるんだ、という誓いですね」
●「帰ってくる人は少ない。ここらは幼稚園も中学校もあって、子どもも、勤め先から助けに帰った親も、何人も亡くなったから。じいちゃんは3代続く農家だから『戻りたい』って。田んぼは、まだ使えそうにないね」
●「人と顔を合わせれば、お金の困り話ばかり。多宝会の会合やらで元気になれるのが、ありがたいの」
     ◇
●「17年前でしたか、主人が、次女の結婚式で一緒にバージンロードを歩きたいと言いました。それから毎朝、閖上の農道で、歩く練習をしたんです。つえを突いて一歩ずつ」
●「閖上に行くと、そういうのを思い出して駄目ですね。楽しい思い出もあったけど、それも全部、津波で流された感じです」

〈きっかけ〉
●「俺も、仙台に移ろうかと考えたこともあったけど……。皆、経済的な問題もあって、戻るも離れるも苦しみ抜いての決断だと思います」
●「そういう今が、信心している人の勝負時だと思う。一人残らず幸せになると、先生に誓ったんだから」
●「人の痛みを想像し続ける力が問われていると思う」
●「人の苦しみが分かる、と簡単には言えない。津波で奪われたものはそれぞれ違うし、苦悩をのみ込んで表に出さない人もいます」
●「今度は自分たちが、誰かの“一歩”のきっかけに、と思うんです」
●「仮設住宅のベンチで並んで話す時。会合に向かう車で2人きりになった時。ふと話してくれる人がいます。『実は、家では今も、毎日泣いている。こんなに浮き沈みしていていいのかな』って」
●「そのたびに、支部の全員の環境が落ち着くまで祈り続けようと決意するんです」
●「いつかの聖教で、被災者の方が『自分たちは、たんぽぽの綿毛』と言っていた。どこに行っても自分らしく、力強く咲く種なんだ、と。閖上の一人一人も、そういう役割があるのかな」

〈はい上がる〉
●「でも、発心のきっかけは主人の病気だった。主人のおかげで強くなれた。そう思うと、主人の生き方を、人に伝えていかねばと思ったんです」
●「私も頑張ります」
●「そうすることが、津波に負けずにはい上がったという、主人と私の“勝利宣言”なんです。長年の介護で鍛えられた、負けてたまるかという意地なのかもしれませんね」


【災害と文明2 地域社会圏の提案 建築家 山本理顕
《人間のための復興住宅を 「みんなの家」は人々が出会う空間》
〈震災が明らかにしたもの〉
●これまで日本が進めてきた住宅供給の仕組み、エネルギー供給の仕組み、つまり今までの生活の根幹の仕組みが根こそぎ否定されたということだと思います。
●投資の対象となった住宅は、住む人のためではなく、地域社会のためでもない売る側の利潤を上げるための商品へと変わりました。そこでは、住宅は自分の責任で購入する単なる商品にしかすぎません。
 それが、多くの人が住宅を流されながら、だれも助けてくれない今回のような状況を生むことになったのです。

仮設住宅には戦後の歪(ひず)み〉
●寝室の窓が道をはさんで一方の玄関と向き合う格好になるため、南側の窓は小さな窓になり、カーテンは一日中閉じています。つまり、各戸が密室状態になります。
 こうした住宅配置はセキュリティーとプライバシーを過剰に重視してきた戦後の公共住宅とほぼ同様の配置です。
 戦後の公共住宅モデルは、35平方メートル程度の面積にダイニングキッチン、子ども用と夫婦用の二つの寝室という、いわゆる2DKの部屋割りでした。扉は耐火性の高い鉄製の扉で、閉じると完全に中は密室になります。
 「1住宅1家族」を単位とした公共住宅には、それまでの生活にはない新鮮さがあり、当時はあこがれの住宅でした。そして、大量に供給された公営住宅、公営団地によって、人々は家族という生活の自立性、プライバシーという考え方を徹底的に刷り込まれます。
 被災地に建設された仮設住宅の配置には、こうした戦後の住宅供給の仕組みと、その結果、人々に深く刷り込まれたプライバシーの考え方が反映しているのです。

〈開かれた場を創り出す〉
●孤立化を何とかしたいと、玄関が向かい合うように住宅を配置し、互いの顔が見えるように玄関をガラス張りにする配置計画をまとめました。
●玄関が互いに向かい合うことで、そこに路地のような場所ができました。さらに、その路地に「ひまわり通り」「あじさい通り」といった通り名を付けることで、単なる仮設住宅郡が少しは住民同士が触れ合う場所になっていったと思います
●地域社会圏の中では、人々の生活は「1住宅1家族」の中に閉じこもるのではなく、隣人、周囲の人々との関係をつくり、一人一人が隣人、周囲の人々に対しても責任があるような住み方が求められます。
 そして、そのためには密室のような専用住宅をつくるのではなくて、その住宅が働く場所やお店やアトリエのような場所にもなる。そのような住宅の提案をしています。土間のような、あるいは縁側のような場所を持った住宅です。その場所が道に対して開いています。その場所を使って、ちいさくてもいいから商業活動ができると、今までの住宅専用地域とは全く違った地域社会圏ができると思っています。
●住宅地の中に小さな商業活動の場所が混ざり合っていることが「地域社会圏」をつくるためには必要です。
 震災後、5人の建築家で結成した「帰心の会」では、被災地に「みんなの家」を建設、寄贈してきました。私が設計を担当した釜石市平田第6仮設団地の「みんなの家」は、“昼間はカフェ、夜は居酒屋”というものです。住宅群のどこからでもよく見え、テントを素材としているため、夜でも中の光が透けて見える建築になっています。眠れない夜にもここに来れば誰かに会える、話ができる、そう思ってもらえるような建物になればと設計したものです。
 これまで仮設住宅にはなかった人々が集まれる空間ができたことで、多くの人々が出会えるきっかけとなり、そこに地域社会圏が生まれることを期待しています。

〈共に助け合える住環境へ〉
●少子高齢社会を考えると、家族の内側だけで介護を担う仕組みは現実に不可能です。国のセーフティーネットは、ますます脆弱になっています。そのなかで考えられるのが、地域社会圏というシステムと共に助け合う仕組みをつくるということです。


【介護 高齢者ソフト食 楽しく、おいしく、安全に】
〈農学博士 管理栄養士 潤和リハビリテーション診療研究所 客員研究員 黒田留美子さん〉
●外出が減り、単調な生活になりがちな高齢者にとって、食事は大きな楽しみです。
 食べやすい上に、彩りや盛り付けなどから「食べたい」と思う料理を提供したいもの。高齢者ソフト食には、そんな“おもてなしの心”が込められています。
●本人の“食べる力”の強弱を判断する材料は、主に「かむ力」と「飲み込む力」です。
 かむ力は、(1)唾液が多いか(2)舌は動くか(3)歯はあるか――などを確認。飲み込む力は、(1)飲み込みで上を向いてしまうか(2)飲み込みに時間が掛かるか(3)口の中に食べ物が残るか――などをチェックしましょう。
●覚えておきたい五つの基本を紹介します。
 (1)軟らかい食材…野菜は繊維の少ないもので、冷凍食品の方が軟らかい場合は活用も。肉や魚は、病気で制限されていなければ脂肪の多いものを選ぶ。
 (2)食べやすく下処理…野菜は繊維に対して直角に切り、厚さ2〜3ミリ程度に。肉類は、ひき肉が便利で、つなぎを加えて成形する。
 (3)油脂で喉の滑りをよくする…炒め物や揚げ物の他にも、料理に直接加える。コクやうま味も出る。
 (4)食材をつなぎに…食塊(食べ物をかみ砕き、唾液と混ぜてできた飲み込む前の塊)を作りやすくすることがソフト食のポイント。油脂類や、とろみを出す食材をつなぎとして活用する。卵黄とサラダ油で作る“卵の素(もと)”は、肉料理や魚料理のつなぎに効果的。
 (5)調理を工夫…先に蒸してから、揚げたり焼いたりする。喉の滑りをよくするために、水溶きかたくり粉や、介護食用ゼラチン寒天なども使用する。
 これらの基本を踏まえて、ぜひ、いろいろなソフト食作りに挑戦してみてください。