個人指導や折伏はどうすればよいのか、私の側にいて覚えていきなさい

2013年6月6日(木)更新:5
・『決して恐れず、退いてはなりません。難を乗り越えてこそ、成仏できる』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20170504


【新・人間革命 奮迅 二十五】
 牧口常三郎から、必ず難が競い起こると聞かされていた藤川多恵は、牧口らが逮捕された時、“先生のおっしゃった通りになった”と思った。むしろ、仏法への確信を強め、懸命に題目を唱え、信心を貫いた。
 彼女の溶接技術も、次第に向上し、蓄えもできるようになった。
 終戦を迎え、やがて復員した夫の藤川秀吉は、一九四七年(昭和二十二年)八月、正式に学会に入会した。そして、戸田城聖のもとで、純真に、一途に、信心に励んだ。生きて帰れたことに、仏法の力を感じていたのだ。
 足立の藤川宅は、座談会場となり、戸田も何度となく足を運んだ。戸田は、慈愛を注いで、藤川を育んでいった。
 「個人指導や折伏はどうすればよいのか、私の側にいて覚えていきなさい。信心は、実践のなかで学び、身につけていくものです」
 藤川は、その通りに行動した。戸田が蒲田の座談会に出席すると聞けば、自転車で三時間かけ、訪ねて行った。しかも、新来者と一緒に駆けつけたのである。
 また、戸田が仙台に行くといえば、自分も仙台へ向かった。急なことなので、多恵が着物を質に預け、旅費を工面した。
 多恵は、「帰りの汽車賃が足らなければ、歩いて帰っておいでね」と、明るく言って、笑顔で夫を見送った。
 彼は同志の激励にも歩き回った。靴がすぐにすり減るので、安いわらじを履いて歩いた。
 藤川は、戸田がそうしたように、後輩と共に指導や弘教に走り、活動の基本を、行動を通して教えていった。人材育成とは、一緒に動くなかで、学会の精神と活動の在り方を教えていくところから始まる。
 そして、五一年(同二十六年)に、“わらじ履き”の支部長が誕生するのだ。
 藤川夫妻は、ただただ広宣流布に生き抜いた。そこに一点の迷いも、逡巡もなかった。いな、その人生を無上の誉れとし、誇りとしていたのだ。それが、草創の支部長・婦人部長の心意気であった。
   (聖教新聞 2013-06-01)