一見、異なる存在でも、等しく仏性をもった“仲間”

2013年7月5日(金)更新:3
【名字の言】
 思わぬものが、実は仲間同士のことがある。赤く丸いトマトと、濃い紫で細長いナス。ともにナス科の植物だ。ふかすとおいしいサツマイモと、初夏の鉢植えが美しいアサガオも、同じヒルガオ科。これらは、互いによく似た花を観察することで納得できる▼逆に、由来は異なるが、同じ環境や用途のために似た姿になったものもある。魚の背びれとイルカの背びれ、コウモリの翼と鳥の翼。植物でも、ジャガイモの芋は茎が変化したものだが、サツマイモの芋は根が変化したものだ▼「外見は違うが、実は仲間」「由来は違っても、目的を同じくするうち仲間になる」――生物が、人間社会に教えてくれることは多い。法華経薬草喩品の「三草二木の譬」も、一見、異なる存在でも、等しく仏性をもった“仲間”であることを譬えたものだ▼アメリカの詩人エマソンは言う。「友人と共にあるとき、私たちは容易に偉大な人間になれる」「生の扉をひろく明け放ってくれるのは友人なのだ」(小泉一郎訳『エマソン選集・3』日本教文社)▼何となく、肌が合わないと遠ざけていた人でも、語っているうちに共感を見いだし、友情が芽生え、切磋琢磨し合う関係になれることがある。“発見”の喜びは対話の醍醐味である。(由)
   (聖教新聞 2013-07-05)