人間は人間の中でこそ輝く

2013年8月3日(土)更新:6
【社説】
 悩んでいる友を励ましていたが、終わってみると、かえって自分が励まされたかのように元気になっていることに気付く。そうしたエピソードをよく聞く。
 あるいは、自ら「成長した」と語る人はいまい。成長したかどうかは「他者」の評価によって初めて知りうる。
 自身の才能や人間的な魅力を磨くにも、「ああなりたい」「こうなりたい」と思う憧れの対象が必要となろう。
 いずれにも共通するのは、自分のことは自分では分かり難いということ。目に見えない心を”可視化”する対象――それが「他者」の存在といえる。

〈自己を映し出す対話相手〉
 釈尊の過去世の姿として仏典に登場する不軽菩薩の実践も、同様の文脈から捉え直すことが可能だろう。
 威音王仏滅後の像法時代、不軽菩薩は「二十四文字の法華経」を唱え、全ての人に仏性があるとして、人々を礼拝し続けた。他者の心の内にある仏性に深い信頼を置いたのだ。人々から「虚妄の授記」と非難され、悪口罵詈や杖木瓦石を浴びせられても、不軽菩薩は礼拝行をやめず、やがて成仏の功徳を得る。
 御聖訓には「不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向って礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(御書769ページ)と仰せである。
 仏性を顕現する上で、不軽菩薩の実践は、大切な二つの視座を提示している。一つは、相手を仏として礼拝する時、相手の仏性がこちらを礼拝するということ。もう一つは、相手を尊敬することで自身の仏性も顕れるという点である。つまり、万人成仏という「人間への絶対の信頼」から、最高の境涯は生まれるのだ。

〈他者ありて境涯は高まる〉
 他者とは「鏡」である。自身の仏性も他者の仏性によって”可視化”される。対話する相手が成長すれば、自身の成長も実感されよう。
 不軽菩薩のごとく「自他不二」の仏性への礼拝に徹する行為は、そのまま自身の成仏、すなわち「人間革命」へと通ずるに違いない。
 釈尊いわく、善友をもつことが仏道修行の全てなのだ、と。
 その意味で、よき人間関係それ自体が、「人間革命」の証しといえよう。同志や友人への敬意と感謝を忘れず、互いに信頼を深め合いながら、わが生命を最も輝かせる”他者との関係”を豊かに紡いでいきたい。
   (聖教新聞 2013-07-29)