必要なのは 人間自身の革命です

2013年8月12日(月)更新:6
【響き合う魂 SGI会長の対話録 第12回 ローマクラブ創設者 ペッチェイ博士】
 アウレリオ・ペッチェイ博士と池田SGI(創価学会インタナショナル)会長は、それぞれ本を携えていた。
 SGI会長が持参したのは『二十一世紀への対話』日本語版。歴史学者トインビー博士との対談集である。
 ペッチェイ博士は、SGI会長の小説『人間革命』の英語版。
 博士は、稀代(きだい)の碩学(せきがく)トインビー博士が「ぜひとも会ってほしい」と推薦した知識人の一人だった。
 1975年5月16日、フランスのパリ会館に着いた博士は、こう切り出した。
 「私は、今まで、『人間性の革命』を唱え、行動してきました」
 「しかし、それをさらに深く追究していくならば、究極は『人間革命』に帰着すると考えるようになりました」
 この日は、マリサ夫人の誕生日だったにもかかわらず、イタリアから遠路、駆けつけた。
 5月の日差しがまぶしい。緑の絨毯(じゅうたん)にオレンジのパラソルを立て、語らいは2時間半に及んだ。
 「人間性革命と人間革命の関係について、お聞かせください」と博士。SGI会長が答える。
 「『人間性革命』の大前提になるのが、人間性を形成する生命の変革であると思います。その生命の根源的な変革を、私たちは『人間革命』と呼んでおります」
 博士は笑みを浮かべた。
 「私も、きょうからは『人間革命』でいきます」
 「人類は、これまでに産業革命、科学革命、テクノロジー革命と『3つの革命』を経験してきました。これらは、どれも『人間の外側の革命』でした。
 ……技術は進歩しても、文化的には化石のように進歩が止まっている。そのギャップを埋めるために、必要なのは『人間精神のルネサンス』です。『人間自身の革命』です」
       ◇
 2人の出会いは、博士が創設したローマクラブのリポート『成長の限界』が出版された、3年後であった。
 リポートは、経済成長一辺倒(いっぺんとう)の現代文明が、このままでは破局を迎えると論じ、世界に衝撃を与えた。博士は、「人類を破滅から救う」責任感を胸に、同クラブの会長として東奔西走していた。
 当時66歳。SGI会長は47歳。だが、年上の博士が「センセイ」と呼び掛ける。
 キビキビとした身のこなし、厚い胸板。洗練された振る舞いの中にも、謙虚さがある。
 第2次世界大戦下にファシストと戦い、戦後も長年、生き馬の目を抜くビジネスの世界で生きてきた。鍛えられた人間だけが持つ、鋼(はがね)のように強くしなやかな精神が、にじみ出ていた。
 物質文明に酔い、エゴの衝突を繰り返す人類を憂いつつ、なおも「私は人間を信じているし、人間革命を信じている」(『人類の革命』)と綴った博士。
 この人間理解をつくったのは、なんといっても、ファシストと戦った経験であったに違いない。
 博士は、学会の牧口初代会長、戸田第2代会長の獄中闘争についても熟知し、「正義の道を貫かれた」と話した。
 SGI会長に促され、レジスタンス(抵抗運動)の闘士だった時代について語り残している。
 44年2月、35歳の時に博士は逮捕された。
 ムッソリーニ政権は崩壊状態にあり、代わってナチス・ドイツがイタリア支配を拡大していた。抵抗運動の最高機密である「軍事計画書」「暗号表」を持っていた博士は、当局の拷問の標的となる。
 顔が変形してしまうほどの暴力。それでも口を割らなかった。
 博士を弁護する友人にも、博士に不利な証言を引き出すため、拷問が繰り返された。友人も、博士を売り渡すことはなかった。
 博士はSGI会長に語った。
 「痛手を受けた分だけ、私の信念は鍛えられました。絶対に裏切らない友情も結べました。だから逆説的には、『ファシストからも教えられた』というわけです」
 後に獄中体験を、こう綴っている。
 「この捕らわれの身の一一か月は、私の人生を最も豊かにした時期の一つである」
 「私は、人間の中には善を求める偉大な力が潜んでいることを確信するようになった。この潜在力は解き放たれるのを待っている」(『人類の使命』)
       ◇
 パリの青空の下、「人類への責任感」で意気投合した博士とSGI会長は、将来の対談集出版に合意。5度の語らいを重ねた。
 79年11月の東京。滞日わずか2日間という過密日程を縫って、博士は聖教新聞本社を訪ねた。
 81年6月のフィレンツェ。博士は自ら小さな車を駆って、ローマから4時間の道のりを走った。
 82年1月の東京。国際友好会館(当時)の庭を、SGI会長と歩いた博士は「この庭も美しい。しかし、真実の友情以上に、この世で美しいものはない」――と。
 最後の語らいは83年6月21日。舞台はパリに戻った。
 SGI会長の宿舎を訪ねた博士は、アメリカでの会議を終え、同日朝に着いたばかりだった。しかも、空港で全ての荷物を紛失するという事態の中、約束の時間に間に合わせるため、着の身着のままで現れたのである。
 「誠実の結晶のような人」(SGI会長)であった。
 最後まで、人類への責任を果たそうとする情熱は衰えなかった。
 「民衆の心の底流にある平和への志向性は、表面に現れた軍備増強という志向性よりも強いはずです。時代の大転換期の今こそ、人間の本来持つ賢明さ、英知を結集することによって、平和への転換を図らねばなりません」と博士。
 「民衆の声は、平和への最大の武器です。この武器に勝るものはない」とSGI会長は応じた。
 「私たちの対談は、永続的な平和達成への道程となるに違いありません」
 博士はこう語り、さらに対話を続けることを強く望んだ。
 だが、翌84年3月、75歳で世を去った。ドイツ語で対談集『手遅れにならないうちに』(邦題『二十一世紀への警鐘』)が発刊された、同じ月だった。
 対談集は今、17言語で出版され、世界中で読まれている。
 SGI会長は長男のロベルト氏、次男のリカルド氏と会い、博士を偲んだ。
 博士の後継者であるリカルド・ディエス=ホフライトネル名誉会長とも友情を結び、対談集『見つめあう西と東』を発刊した。
 ローマクラブの「名誉会員」ともなった。
 現在の共同会長、ドイツのエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー博士とも対談を行っている。
 ペッチェイ博士が、亡くなる12時間前まで口述していた『今世紀の終わりへ向けての備忘録』。
 そこには「人類の唯一の頼みは人類の質と、全世界の構成員の質を高めることです」と。
 人類の質を高める――すなわち「人間革命」であった。
 博士との誓いのままに、SGI会長の挑戦は続いている。
   (聖教新聞 2013-08-05)