寸鉄・わが友・婦人部のページ・体験 「広島原爆の日」から68年

2013年8月16日(金)更新:4
寸鉄
●広島原爆忌(げんばくき)。生命脅かす魔性の爪もぎとれ!恩師の遺訓は池田門下が継承
●『新・人間革命』執筆開始20周年。連載日本一の偉業。民衆叙事詩は燦然と
●音楽隊・鼓笛隊が大会やパレードで大活躍。希望広げる妙音菩薩に最敬礼
●就職活動の友よ頑張れ!入念な準備と不屈の唱題で栄冠を。師が祈り待つ
●「賢人は安(やす)きに居て危(あやう)き歎(なげ)き」。災害の備え万全に。心掛けと声掛けから
   (聖教新聞 2013-08-06、以下同)


【スペイン・アンダルシア州から民音に感謝状】
●スペイン・アンダルシア州のマリア・アンヘレス・カラスコ・イダルゴ局長一行が5日、東京・信濃町民音文化センターを訪問。民音に「感謝状」を贈った。
 これは、民音のフラメンコ舞踊の振興・普及に対する貢献を讃えたもの。同州はフラメンコ舞踊発祥の地。民音は270回を超える公演を実現し、文化交流を推進してきた。
 マリア・アンヘレス局長は「文化の力で人と人を結ぶ民音に、心から感謝をしたいのです」と語った。
 また、同州のアンダルシア・フラメンコ振興局からは「感謝盾」が授与された。小林代表理事らが歓迎した。


【わが友に贈る】
 青年部が
 教学研鑽の夏!
 御書は勇気の宝剣。
 勝利の原動力。
 徹して学びゆけ!


【婦人部のページ “創価の宝”育む使命に燃えて! 未来部育成部長の活躍】
〈良い所を見つけ、伸ばす〉
●「師匠との“原点”があれば、どんな困難も乗り越えていく力になります」
●未来部員との関わりでは、教員時代と同様、相手の良い所を見つけ、伸ばすことをいつも心掛けている。だからこそ、一体一の対話を大切にし、単発でなく、定期的な訪問激励を続ける。
 “信じる気持ちを持ち続けていれば、子どもは必ず心を開いてくれる”との固い信念で、全力の励ましを。その真心が通じ、多くの未来部員と信頼の絆を結んできた。
 本年、5・5「創価学会後継者の日」を記念して、未来部の指針に「親孝行しよう」の1項目が加えられた。
 「両親らの期待を一身に受けた未来部員が大成長できるよう、これからも祈りに祈っていきます」

〈会館掲示板で情報を発信〉
●圏の「つばさ少年少女合唱団」の練習スケジュールや、部員会の日程、夏には各種コンクールのお知らせなどを掲示し、未来部員のための情報を発信。
 5年ほど前からは、「少年少女希望絵画展」に応募したメンバーの作品を撮影。多くの同志の目に触れるよう、そして、応募した未来部員を皆で称賛できるよう、その写真を会館内に展示してきた。
●「写真による作品展示は、未来部メンバーの励みになることはもちろん、家族や地域の皆さんも、絵画を通してメンバーの成長を感じることができ、喜んでくださっています」
●「私自身は未来部の経験がありません。だからこそ、今、未来部の皆さんには、池田先生の心を知り、学べる幸せを伝えています」
●「一回一回の会話を大事にしながら、精いっぱいの励ましを送り続けていきます」

〈“時”をはずさず激励重ね〉
●「どんな時も、母は私のことを信じてくれていました。今、報恩の心で、日々の活動に取り組んでいます」
 メンバーへの声掛けは当然のこと、入学や卒業、試験、部活動の大会など、節目となる機会を捉えては励ましを送ってきた。
 そして、“使命のない子はいない”との思いで、自身の体験を交えながら、師匠の偉大さや信心の素晴らしさを、一人一人、誠実に、率直に語る。
●参加したメンバーに喜んでもらえるよう、毎回、楽しい企画を立案している。
●一緒に御書を開いたり、名誉会長の指針を学んだりしながら、創価の心を伝えている。


【信仰体験 きょう「広島原爆の日」から68年 爆心地から約1.9キロで被爆 二度と起こさせないと語り継ぐ】
〈思い出すのも恐ろしい〉
 昭和20年(1945年)8月6日の朝。おばあちゃんは、勤め先のある広島駅前(爆心地から東へ約1.9キロ)におった。
 外での朝礼を終えて事務所に入ろうとした瞬間、閃光(せんこう)が走ったんよ。ものすごい衝撃。足元から砂煙がもうもうと立ち、柱が次々と倒れてくる。
 どれくらいたったじゃろう。やっと、がれきの中からはい出た。
 家族は!?――強い熱戦で焼かれた左足を引きずって、自宅(広島駅から北東へ約1キロ)に向かった。
 街からは大勢の人が逃げてくる。ボロ布のように、だらりと皮膚がぶら下がっとる。顔が腫れて、男か女かも分からん。一体何が起こったんか……。
 家に戻ると、義父が呆然としとる。義母と3歳の娘は峠にある防空壕におった。夫も無事じゃった。
 線路を越えて火の手が迫り、自宅は全部燃えてしもうた。防空壕では、苦しむ声、家族を呼ぶ声、助けを求める声が一晩中続いた。一緒に働いていた同僚は死んでしもうた。
 数日後、中島地区(現在の広島平和記念公園内)に住んでいる実母を探しに爆心地をさまよった。たった1発の爆弾で、街は廃墟になっとった。
 子どものころに泳いだ元安川は、水を求めた人が川に頭を突っ込んだまま折り重なるように死んどった。
 らせん階段で鬼ごっこした広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)は鉄骨がむき出し。実家を訪れると跡形もない。母は死んでしもうたんか……。
 父亡き後、一人で暮らしていた母。諦めきれず、何度も行ったんよ。

〈妙とは蘇生の義なり〉
 8月15日終戦――。廃材で造ったバラック小屋に家族で暮らした。
     ◇
 うれしかったのは、亡くなったと諦めていた実母と奇跡的に再会できたこと。偶然にも家を離れていたことで、難を逃れたんじゃ。
 しかし、原爆の苦しみは続いとった。被爆時、おばあちゃんは妊娠5カ月じゃった。生まれてきた次女には、顔と肩にあざがあった。
 毎日のように頭痛やめまいに襲われた。放射能の影響による後遺症(原爆症)じゃった。
 栄養失調で母乳が出ない。次女を背中におぶって闇市で食料を探した。野草、米ぬかなどで食いつなぎ、飢えをしのいでな。
 明日への希望もなく、原爆症の恐怖は重くのしかかってくる。すがる思いで、多くの宗教を遍歴したけど、どれも納得できんかった。そして最後に出あったのが創価学会だったんよ。
 理屈も何も分からない。ただ、先輩に言われて題目を唱えた。唱えるほどに、闇の中をさまよっていた心に、生きようという気力が湧き上がってくるんじゃ。「妙とは蘇生の義なり」(御書947ページ)との御文を知ったのは、ずっと後のこと。
 昭和32年(1957年)に入会してからは、ただ、ただ幸せになりたいと願って唱題した。日々の生活に躍動感が湧いてくる。折伏にも歩いた。被爆の恐怖は、いつしか信心の喜びに変わっとった。
 一家の経済苦も、自身の病も、すぐに好転はせんかった。そんな時、学会の先輩が教えてくれた御書の一説が胸に刺さってな。
 「小さな青バエも駿馬の尾につかまって万里を行くことができ、葛(かずら)は大きな松の木にかかって千尋(せんじん)に伸びることができる」(同26ページ、趣意)――。
 “こんな私でも、信心をしっかり貫いていけば、必ず幸せな境涯を開くことができる!愚痴や弱音を吐かず、生涯、師匠と同志についていこう”と。
 未入会の夫は最後まで反対したが、家を座談会に使ってもらった。駄菓子屋、氷屋、お好み焼き屋などやりながら広布に走ったよ。
      ◇
 その中で石津さんは、強くたくましい“太陽の母”へと変わっていく。

《この地から平和の闘志よ、羽ばたけ!》
〈私の平和運動を地道に〉
 語り終えた石津さんの表情に、苦悩を突き抜けた青空のようなさわやかさがあった。
 “こんな体験を、もう二度と、誰にもさせたくない!”
 戦後の長い間、石津さんは一人、心の中で怨念ともいえる怒りを持って生きてきた。だが、年を重ねるたびに“一人でも多くの人に、私の体験を語らなければ!”との使命感へと変わっていった。
 原爆は過去の話ではなく、今も苦しんでいる多くの被爆者がいる。石津さんは、学会活動を通して、また地域の人々に折あるごとに、自らの体験を語っていった。さらに、未来を生きる子、孫にこそ、当時の惨状を語っていこうと決意した。
 “極めて地道だが、これが私の平和運動だ”と。
 その石津さんの意志を継ぎ、息子の敬三さん(60)=副区長(本部長兼任)=も、広島青年部の代表として反核運動の先頭に立ってきた。妻の洋子さん(59)=婦人部副本部長(支部婦人部長兼任)=と共に、石津さんの築いた広布の地を走る。
 また被爆3世である孫たちも続く。
 和子さんの他に、達也さん(31)=男子部副本部長=は創価班の一員として学会厳護の道を歩む。
 哲さん(26)=男子地区副リーダー=は大手プラント会社に勤めながら、海外に雄飛する日々。正樹さん(19)=学生部員=も、毎年行われている「学生平和意識調査アンケート」を通して、友人に核兵器の廃絶を訴えている。
 「おばあちゃんは、いつも私たちの幸せを祈り、信心を教えてくれた。今度は私たちが平和の思いを継承していきます」と口をそろえる。
 子は4人。孫12人、ひ孫9人。石津さんがともした平和の種火を、しっかりと受け継いでいる。
 かつて兵士を鍛錬した東錬兵場の跡地には、今、広島池田平和記念会館がそびえる。
 池田名誉会長は、“この平和のドームから今度は広宣流布の闘士が世界に羽ばたいてほしい”と願った。
 師匠の思いをわが思いとして、石津さんは「8・6」を迎える。