家族全員が広布の第一線へ 団結の信心で宿命を転換

2013年12月13日(金)更新:5
【世界広布新時代第2回本部幹部会 沖縄総会から(要旨)】
〈沖縄 安田総県長 喜舎場総県婦人部長
 小説「人間革命」執筆の地から全国に拡大の波動を! 2014年沖縄広布60周年へ希望の前進〉
●1964年(昭和39年)12月2日。先生は、那覇市の沖縄本部で小説『人間革命』を書き起こされました。その時の真情を「私が小説『人間革命』の冒頭の一節を、この地で書こうと決めたのも」「学会の原点ともいうべき、平和建設の同志の力強い凱歌を聞いたからにほかなりません」とつづられました。


那覇王者県 常勝圏 照屋さん一家》
〈父・幸勇さん〉
 私は那覇市内で、野菜の種などを扱う園芸店を経営しています。私が幼いころの父は仕事一筋で、お人よし。しかし、ひとたび酒が入ると別人のようになり、家の中で暴れ回りました。そんな父が怖くて怖くて、私たちきょうだい6人は、母と共に毎晩のように自宅の軒下で夜露をしのいでいました。
 そんな一家の状況を見かねた近所の学会員に折伏を受け、1965年(昭和40年)に家族で入会しました。父の酒癖が直るよう、母は題目をあげ抜き、折伏に奔走しました。
 そして、朝から晩まで働き、6人の子どもを必死で育ててくれました。
 長男だった私は、そんな母を幸せにしたい、楽をさせてあげたいと、信心に励むようになりました。男子部の先輩にも恵まれ、信心根本で仕事にも全力投球。両親から引き継いだ店も新たな取引先を開拓でき、女子部だった妻と結婚。83年の「3・16」には、待望の長男を授かることができました。
 しかし、その後、宿命の嵐が襲いました。金銭トラブルに巻き込まれ、膨大な借金が私に降り掛かってきたのです。さらに、そのころ誕生した次男は重度の口蓋裂(こうがいれつ)で、医師からは「心臓に穴が開いているかもしれない。耳も聞こえないかもしれない」と告げられました。夜はそんな幼い子どもを抱いて泣き明かし、朝になると借金の督促に終われる日々。健康が取りえの私が、胃潰瘍結核を患いました。
 そんな、どん底の生活をしていた92年、池田先生が沖縄を訪問してくださり、ここ沖縄研修道場でSGI(創価学会インタナショナル)第1回アジア総会が開催されました。沖縄物産展も開かれ、私はたくさんの蘭を出展させていただきました。そこに先生が足を運んでくださったのです。
 先生は蘭を一点一点ご覧になり、私の目をじっと見て、「御書に『汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る』(31ページ)とあるじゃないか。何があっても生涯、学会と共に歩んでいくんだよ」と励ましてくださいました。夢のようなひとときでした。どんなに苦しくても、学会と共に、先生と共に生き抜こうと、夫婦で腹を決めました。
 仕事でも、題目根本に知恵を出し、取引先の新規開拓に取り組みました。少しずつ業績が好転し、絶望的だった債務の整理も進みました。
 やがて借金を完済。子どもたちも家業を応援してくれるようになり、軽自動車1台がやっとだった経営状態から、現在では従業員13人、営業車12台、県内の大手ホームセンターなどを主要取引先にするまでになりました。
 さらに2000年には念願だった個人会場が完成。3年前には、6階建ての自宅兼店舗まで新築することができました。
 次男は心臓も耳も異常なく、元気に成長しました。父も、亡くなる前の10年は酒を一滴も飲まなくなり、苦労続きだった母は、好きな時に海外旅行に行ける境涯に。
 先生の指導通り、学会と共に生き抜いてきて本当に良かった。どれほど感謝しても、し尽くせません。
 この大恩を“地域に貢献することで返していきたい”と考えていた時、沖縄では子どもたちの非行や深夜の徘徊が問題になっていました。
 わが家も、いろいろありました。親子の断絶、学校の先生と生徒の不信。この悲劇を少しでも減らすことはできないかと祈る中、学校にゴーヤーの苗を寄贈する運動を思い付きました。
 昼の太陽を浴びてグングン成長するゴーヤーを、一緒に栽培することで、“子どもたちの心にも、必ずや変化が生まれる”と思ったのです。
 このゴーヤーを贈る運動を、英語のレッツゴーの「GO(ゴー)」に、家のことを沖縄の方言で「ヤー」というので、合わせて「家に帰ろう」という意味で「GO家(ゴーヤー)運動」と名付けました。この運動が徐々に注目を集め、9年がたった今では全県を挙げての取り組みに。
 市内のあちこちでゴーヤーのマスコットをあしらったノボリが立てられ、大手スーパーでは午後9時45分になると「家に帰ろう GO家運動」のアナウンスが流れるようになりました。
 先生に教えていただいた「麻畝の性」の御聖訓のように、ゴーヤーが子どもたちを真っすぐに育てるきっかけになっています。この取り組みが評価され、那覇市教育長や沖縄県警から感謝状を頂くこともできました。
 さらに広布のため、地域のために全力で戦ってまいります。
 それでは、長男に代わります。


〈長男・伸幸さん〉
 父がGO家運動を思い付いた直接のきっかけは、おそらく私です(笑い)。実は、私は中学生のころから深夜に徘徊し、全然、家に帰らなかったのです。お父さん、お母さん、本当にすいませんでした(笑い、拍手)。
 子どものころ、弟の口蓋裂のことを周りからバカにされるのが悔しく、次第に他人に暴力を振るうようになり、中学生になったころには、母がしょっちゅう学校に呼び出されていました。
 高校も中退。こんな私を粘り強く励まし続けてくれたのは、男子部の先輩でした。朝まで私の話を聞いてくれ、一緒に題目をあげてくれました。
 この先輩のような人間になりたいと、折伏にも挑戦。戦えば戦うほど、広布のために尽くす父の大きさも、母の偉大さも、実感できるようになりました。そして私自身、これまで8人の友人に御本尊流布をすることができました。
 現在は弟2人と共に家業を支え、組織では圏男子部長をさせていただいています。弟2人と共に最強の人材城を築いていく決意です。それでは次男にバトンタッチします。


〈次男・昭さん〉
 私が小学6年生の時、忘れられない出来事がありました。「5・3」の総県記念総会に参加した父が、大きなお土産を抱えて家に帰ってきました。中には、劇画『人間革命』が入っていました。
 今、考えれば、池田先生が小説『人間革命』の執筆を沖縄で開始してくださった心を、私たちの胸に刻みたかったんだと思います。
 20歳になった時、口蓋裂の再手術を受けるため入院した際にも、父が渡してくれたのは小説『人間革命』でした。朝から晩まで読み進め、入院中に全巻読了することができました。
 その年、創価班大学校に入校した私は、2世帯の折伏を実らせることができました。今は、男子部本部長として戦っています。自身の人間革命を懸け、さらに全力で拡大に取り組んでまいります。
 次は三男です。


〈三男・清司さん〉
 男子部副部長の三男です。ありがたいことに兄を見て育った私は、不良にならずに済みました(笑い)。そして、兄がみるみる変わっていく姿に、信心のすごさを実感できました。
 昨年9月、私は沖縄青年部の代表50人の1人として「台湾SGI50周年記念青年平和文化祭」に友情出演させていただくことができました。交流を通して、台湾の同志の求道心の強さ、師弟の精神の深さに心から感動しました。
 私も負けてはいられないと決意。本年は2人。今までに5人の友人に御本尊流布をすることができました。
 学会活動でも、仕事でも、必ずや兄2人を超える人材に成長していく決意です。最後に母の登場です。


 〈母・清子さん〉
 義理の父の酒癖、莫大な借金、長男の非行、次男の病気、さまざまなことがありましたが、もう駄目だと思ったことは一度もありません。御本尊があったからです。心の中に池田先生がいらっしゃったからです。どんな時も題目をあげ抜き、全て乗り越えてくることができました。
 私自身も7年前、県婦人部長に任命された翌日、病院で「乳がんの疑いがある」と、医師から宣告されました。自宅に電話すると夫は絶句。長男が代わって電話に出て言いました。
 「お母さん、すごいね。昨日が県婦人部長の任命で、今日はがんの宣告?もう頑張るしかないね!お題目だね」と。
 やんちゃだった長男が、こんなに成長してくれた。先生・学会への感謝で胸がいっぱいになりました。その後も兄弟3人で私のことを毎晩、祈ってくれました。
 1週間後、夫と共に病院へ説明を受けに行ったところ、なんと、全ての検査数値が正常になっていました。現在も元気いっぱいに、広布のために戦っています。
 私の何よりの誇りは、この家族です。これからも家族で団結し、沖縄広布の新時代を開くため、さらに戦っていく決意です。
   (聖教新聞 2013-12-13)