「戦争の100年」から「平和の100年」へ (3)

2014年2月11日(火)更新:2
【生命(いのち)の光 母の歌 第5章 「戦争の100年」から「平和の100年」へ (3)】
《戦火なき世界へ!英知と良心を結集せよ》

 サイフェルト博士 前回、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)が話題となりましたが、私はイスラエルに、とても魅力的で素敵な友人がいます。実は彼女は、池田会長の著作の熱烈な愛読者なんです。
 彼女は、チェコスロバキア(当時)のブラチスラバで生まれました。父親は繊維会社を経営していました。両親共にユダヤ人ですが、現地のカトリック教会に通っていました。一家は第2次世界大戦の渦中、ナチス・ドイツによる危険にさらされていました。
 池田SGI会長 イスラエルは、民音が世界各国の中で最初に交流を結んだ国でもあります(1965年)。
 サイフェルト博士は文化交流でよく足を運んでおられるそうですね。ますますお元気な活躍がうれしいです。
 ご友人の出身地のブラスチラバは、現在のスロバキア共和国の首都ですね。
 かつて、その麗しい都(みやこ)にもヒトラーは魔手(ましゅ)を伸ばし、傀儡(かいらい)国家をつくりました。
 第2次世界大戦中、ナチス支配下スロバキア政府は次々と政令を出して、ユダヤ人から職を奪っていきます。
 与党人民党の「突撃隊」によるユダヤ人排斥の暴力も劇化し、やがてナチス支配下の他地域と同様に、ユダヤ人の強制移送が始まります。スロバキアからも、何万という人々がアウシュビッツなどの収容所へと連行されていきました。現地に残ることができたのは、地下に身を隠すことなどが可能な、わずか数千人だったそうですね。
 サイフェルト ええ。私の友人の父親は、ある友人に全財産を渡し、家族を守ってもらえるようお願いしましたが、その友人はお金を持ち逃げし、彼女たちを置き去りにしました。
 たまたま、見ず知らずの農家に数カ月間、かくまってもらうことができたそうですが、本当にひどい話です。
 ナチス政権が崩壊した後、彼女の父親も解放され、会社を再建しましたが、今度は共産党が台頭し、再び勾留されてしまいました。
 その後、一家はイスラエルへ渡ります。彼女はまだ8歳だったそうです。
 彼女とは5年前、ウィーンで、彼女のいとこを介して知り合いました。これがきっかけで、私はホロコーストの問題と向き合うようになったのです。
 池田 平和と軍縮を目指す科学者の連帯「パグウォッシュ会議」を創設した一人であり、生涯、核兵器廃絶のために行動し続けたジョセフ・ロートブラット博士も、最愛の夫人がホロコーストの犠牲になりました。素晴らしい夫人を偲ばれながら、当時のことを語ってくださいました。
 1939年、核物理学の研究のため、祖国ポーランドからイギリスのリバプール大学へ留学していた博士は、ワルシャワに留まっていた夫人を呼び寄せようと、8月に一時帰国しました。
 ところが、夫人が急病にかかったので、いったん単身でイギリスに戻ります。ナチス・ドイツポーランドに侵攻したのは、その2日後でした。
 博士は八方手を尽くします。しばらくの間、“妻はビザを持っているはずだから、何とかイタリアにたどり着けたのではないか。そこからなら、ポーランドよりも容易に出国できるだろう”という希望に、すがりつくようにして生活していたといいます。
 しかし、待てど暮らせど、何の知らせも来ません。ずっと後になって、博士は1通の手紙を受け取りました。その手紙は、ワルシャワから送られていました。夫人は国境で引き戻されていたのです。
 博士は言われました。
 「1940年の末に、彼女から、もう1通の手紙がきました。そして沈黙が、永久に続きました――」と。
 サイフェルト ロートブラット博士と同じような悲劇を、私も知っています。
 イスラエルの友人のいとこが、まだ少女だったころの話です。彼女の母親はナチスから逃れるため、翌日にブラスチラバを出立(しゅったつ)する予定でした。その準備をしていた矢先、ナチスが踏み込んできたのです。母親はアウシュビッツ強制収容所に移送され、そのまま帰らぬ人になってしまいました。
 何と、むごいことでしょう。たった一夜違いだったのですよ。小さな子が本当に哀れです。母親が殺されるなんて……。あまりにも残虐な仕打ちを、人が人に対して犯したのです。「なぜ?」「何のために!」と、問わずにはいられません。これは今でも強く印象に残っており、深く考えさせられる事実です。
 池田 そうした極限状況がどうしてつくられてしまったのか。なぜ回避することができなかったのか――。
 この悲惨な歴史について、ドイツの哲学者ヨーゼフ・デルボラフ博士と語り合いました。博士は、ドイツが当時、世界で最も民主的とされた憲法下のワイマール体制からナチス体制へと移行してしまった背景として、四つの要因を挙げられました。
 「ベルサイユ条約でドイツに課せられたにがい犠牲と屈辱」
 「ドイツとオーストリア両帝国の崩壊後も存続していた旧来の領主制の反民主主義的伝統」
 「ドイツのワイマール共和制とオーストリアウィーン体制という民主主義政体の明らかな構造的欠陥」
 「最悪の時期でオーストリアの全人口に相当する600万人もの失業者を出したワイマール共和国の、1920年代後半における構造的経済危機」と。
 サイフェルト 残念ながら、当時のオーストリアで、反発や抵抗が余りにも少なかったことも、深刻な失業問題と関連していました。飢餓に苦しみ、路頭に迷っていた人々のもとに、ヒトラーが現れ、雇用の創出を約束していったのです。たしかにドイツでは、ナチス政権初期の経済繁栄で人々が職を得ているという状況があったのです。しかし、それは新しく始める世界大戦のため、軍備を拡張する目的のためだったということに気づく人はいませんでした。
 もちろん、詳細は専門の文献を精査する必要があるかとは思いますが、大勢の人々がドイツ帝国への併合とほぼ同時期に弾圧され、収容所に送り込まれていったのです。
 この事実は、ナチスが何年にもわたって、オーストリアを併合するべく、事前に周到な準備を行っていたことを如実に物語っています。
 池田 真摯に歴史の事実を見つめなければ、より良き未来を開くことはできません。
 言うなれば、20世紀は「戦争の100年」でした。これを断じて転換し、21世紀を「平和の100年」とするために、人類は英知と良心を結集しなければならない。その深き自覚と行動が、何よりも求められています。(つづく)

   (聖教新聞 2014-02-11)