正直と正義の“栄えの国”

2014年2月14日(金)更新:4
【太陽の励まし 池田名誉会長と誓いの同志(とも) 〈62〉 佐賀】
 「薩摩隼人」に「肥後もっこす」。九州人には勇敢で、情熱的で、それでいて一徹なイメージがある。
 佐賀県人は「いひゅうもん」「ふうけもん」。頑固で融通がきかず、“変わり者”と見られることもあるが、仕事熱心で、決めたことを貫き通すという。
 「すばらしいじゃないか。それは強い信念と真面目な行動ということだ。広宣流布のためには、最も大事な資質だよ」
 1977年(昭和52年)の佐賀訪問が描かれた小説『新・人間革命』「薫風」の章。
 山本伸一が、佐賀の気質をたたえる場面である。
 池田名誉会長は、地道に、黙々と広布に歩く佐賀の同志を信頼する。それを象徴する歴史が76年(同51年)8月7日、霧島の九州総合研修所(当時)に刻まれた。

《ここは動かん!》
 前日の6日から1週間にわたって、名誉会長は、霧島の地で、未来部をはじめ九州の友に激励を続けていく。
 その一環として7日、各県の輸送班(現・創価班)が集い、夜営する研修が行われた。
 ところが、雨が降り始め、テントの中に吹き込むほど激しくなる。各県が次々と撤収する中、頑固に、決められた場所で、テントを守り続ける青年たちがいた。
 佐賀の輸送班だった。
 「とにかく、ここは動かんぞ、夜を明かすぞという決意でね」。鹿児島市在住の有森義人さん(佐賀太陽県、副本部長)が振り返る。
 “風邪をひかないように。体を大事に”との名誉会長の伝言も伝えられたが、それでも動かない。
 最終的には「退避」の指示に従ったが、この粘りを、名誉会長は忘れなかった。
 2カ月後に、武雄市で開かれた佐賀文化祭。
 名誉会長はメッセージの中で、あの夜の佐賀輸送班の心意気に触れ、「私は佐賀の同志を心から信頼いたします」「ここに学会魂があります」とたたえたのである。
 「誇らしかったですね。格好良くは振る舞えないかもしれないけれど、正義に対しては頑固。そこに自信をもって進むよう教えてくださった」
 創価大学の通信教育部を卒業した有森さんは90年(平成2年)9月24日、佐賀を訪れた名誉会長と再会を果たした。創価教育同窓の一員として、記念撮影に納まったのである。
 「“決められた場所を守る”輸送班の精神は、日常の活動においては“今いる場所で広布の城を守る”ことだと決めて頑張ってきました」と語る有森さん。長男・秀一朗さん、次男・義弘さんもそれぞれ男子部の圏書記長、部長に成長。家族で報恩の道を歩み続ける。

《即席の鼓笛隊》
 一途なのは、男性だけではない。
 「どうにかして、私たちの演奏を、先生に聴いてもらえんやろうか」。唐津の女子高等部員たちが話し合った。
 名誉会長の佐賀初訪問となる67年(昭和42年)9月15日に向け、即席の“鼓笛隊”を結成。夏休みを返上して練習を重ねる。
 楽器は、手持ちのフルートやドラム、鍵盤ハーモニカを持ち寄った。近所の人に、小太鼓を借りた友もいる。
 9月15日、名誉会長との記念撮影会は当初、唐津で行われる予定だった。ところが会場の都合で、急きょ大和町(当時)に変更となる。
 彼女たちの多くは、演奏はもちろん、参加の対象でさえなかったが、列車やバスなどを乗り継ぎ、はるばる会場にたどり着いた。
 撮影の途中で名誉会長が、会場のベランダから、外の人に手招きしてくれた。「みんないらっしゃい!」
 練習に汗した仲間が全員、会場に入ることができた。
 撮影が終わると、高等部が外へ案内される。何だろうと思っていると、名誉会長が中から出てきて「音楽隊の演奏を聴こう」と呼び掛けた。隊員の懇請に応えたのだ。
 “次は私たちの番だ”
 友山節子さん(福岡・久留米市在住、支部副婦人部長)が、意を決して名誉会長に駆け寄った。
 「先生、私たちも練習してきました!」
 「いいよ、聴かせてもらうよ!」。優しく力強い声だ。
 演奏中、名誉会長は、胸に手を当てていた。
 「うまかったよ! ここにジーンときたよ」
 そして「さあ、君たちとも記念写真を撮ろう! 全部、僕の部屋に保存しておくからね」と。
 撮影の後、車に乗り込む間際には、こう言い残した。
 「10年後にまた会おうね」
 77年(同52年)5月25日から27日。名誉会長は2度目の佐賀訪問を果たす。記念撮影からちょうど10年だった。
 あの日、小太鼓を担当していた筒井恭子さん(佐賀太陽県、圏副婦人部長)。
 名誉会長の再訪を聞いて「約束を果たしてくださったんだな、と思いました」。
 その後、授かった長男を1歳で、不慮の事故で亡くした。
 苦悩のたびに記念写真を見つめる。“いつも応援しているよ!”と、師匠が言ってくれているような気がした。
 「その後に生まれた長女、次男、次女の3人全員が、長男の分まで広布の庭を歩んでいます。先生の励ましは、わが家の原点なのです」


《ハサミで“会話”》
 この77年の訪問を原点とする店が、佐賀市にある。
 緒方眞智子さん(佐賀創価県、地区副婦人部長)の営む理容店。5月26日に名誉会長が訪れ、夫の武次さん(故人)が名誉会長の髪にハサミを入れた。
 その3日前、眞智子さんは、北九州の大学で学ぶ長男・謙一さん(同県、支部長)の下宿先にいた。
 北九州文化会館(当時)を名誉会長が訪れていると知り、“会館を見るだけでも”と向かった。すると運営役員に招かれ、敷地内へ。
 あれよあれよという間に、名誉会長と居合わせてしまったのである。
 「どこから来たの?」
 「佐賀から来ました」
 「なんだ。佐賀には、あす行くんだよ」
 隣の謙一さんが「私の母です」と、眞智子さんが北九州まで来た事情を説明し始めた。「いいお母さんじゃないか。親孝行するんだよ」と名誉会長。
 その横顔を見ながら、眞智子さんは、髪が耳に1センチほどかかっているのに気付いた。
 夢中で「先生、私は佐賀で床屋をしているんです。佐賀に来た時は、ぜひ来てください!」と告げた。
 「時間が取れたら、ぜひ行くよ!」と名誉会長。
 その約束を守り、26日に来店したのである。
 大きくドアが開いて「こんばんは!」と名誉会長。
 「ご主人は?」
 奥にいた武次さんのところまで行くと、右手を出した。
 だが、硬くなった武次さんは、思わず合掌してしまう。
 名誉会長も、笑いながら、お返しの合掌。
 椅子に座り、「幸せになりました」という眞智子さんの報告を喜ぶと、あとは、ハサミとカミソリを通じた、武次さんと名誉会長の“無言の会話”が続いた。
 武次さんは、数十人の弟子を抱え、理容組合の理事を務めるほど腕はいいが、信心のほうは、形だけ入会している状態だった。
 帰り際、名誉会長が言った。
 「ご主人、頑張りましょう!」
 「はい!」
 その光景を見て、胸を熱くした眞智子さん。
 数日後、武次さんがぽつりぽつりと、調髪の場面を振り返ったことを覚えている。
 「先生は、髪にコシがなか。本当やったら、もっとハサミに応えんばいかん。先生は疲れとんさるよ」
 「先生は、この信仰に命ば懸けとんさるばい……」
 武次さんはそれから、学会活動に打ち込み始めた。
 朝晩の勤行、会合参加に訪問激励。先駆長(ブロック長)となり、2002年(平成14年)に82歳で亡くなるまで、広布の最前線を歩いた。
 名誉会長の訪問1カ月後に入会した養女夫妻と共に、眞智子さんは今も、店を守り続ける。
 名誉会長はかつて言った。
 「佐賀は栄えの国なんだ。これからどんどん良くなるよ」
 そして、詠んだ。

 正直な
  また正義の強き
    佐賀の友
   幸よ 多かれ
   長寿で あれよと

 栄えの国に、栄えの人生を――佐賀を信頼し、その幸福と前進を見守っている。

   (聖教新聞 2014-02-14)