「真実を見きわめる」ことの大切さ

【御指導】

■話は一つの基準をもって聞け。そうすれば、ハッタリもあれば、嘘つきもあれば、自己擁護の場合もあれば、過大な表現もあれば、策略もあることがわかる。しかし、純粋な信心で聞けば、それらに紛動されないで正しい判断ができる。(1966-06-01)

■有名の人がいる。栄誉の人がいる。功績の人がいる。人は、おうおうにして、これらの“飾り”に幻惑されやすい。しかし、それらは信心とは何の関係もないことである。これまで学会にも、有名や栄誉、功績の仮面をかぶって、学会を利用しようとしたり、増上慢となり退転していった者が出た。(中略)絶対に、こうした「悪」の蠢動(しゅんどう)を許してはならない。仮面の策略に翻弄されてはならない。そして信心の世界で「悪」の働きができないように、責めだしていかねばならない。(1989-10-01)

■話す人の言葉の美しさは、その人の話の「真偽」とは別問題である。言っていることが現実に証明されて初めて、“信頼”できるわけである。人をおとしいれ、欺くために、理に合ったような、たくみな言葉を取り繕う者もある。ゆえに、調子のよい、たくみな言葉にだまされてはいけない。その言葉に、確かな裏付けがあるか、明白な証拠があるかどうかを、きちんと見極めていかねばならない。何でも鵜呑みにして“信頼”してしまう無邪気なお人よしであっては、「悪」の勢力につけ込むスキをあたえてしまう。(1990-06-08)

■御書を拝読すると、日蓮大聖人は何度も何度も「たぼらかされるな」と仰せである。すなわち「だまされてはいけない」とのお言葉である。
「法華初心成仏抄」には『(世間から尊敬されている高僧が、実は法華経の敵であり)漁師が目を細めてシカを狙い、ネコが爪を隠してネズミを狙うように、在家信仰者の男女に本心を隠して甘い言葉を言い、偽り、だますであろうと、経文には説かれている。』(P.556)と。
また「光日房御書」には『敵を知らなければ敵にたぼらかされてしまう』(P.931)と仰せである。
法華経の敵は、人をだまし、退転させるために、様々な悪知恵を使い、うまいことを言って「たぼらかしていく」。だます人間は悪人である。だまされる方も、また愚かである。皆様は賢明に邪悪を見破っていただきたい。(1997-06-16)

■『かの阿闍梨(大聖人を誹謗して、本末転倒の法門を唱えていた悪僧・尾張阿闍梨)らは、自分の誤りを顧みない者であり、(正法の行者であられる大聖人を)嫉妬するあまり、自分の目が回転しているのを大山が回っていると見ているようなものである』(P.1453)。
たしかに、自分の目が回っていれば、見るものすべてが回って見えるだろう。しかも自分では、その転倒に全く気づかない。こうなっては、もう正常な話し合いも不可能である。
ぐるぐる目が回転している人に、どう見えようと、大山は大山である。どっしりとして不動であり、不変である。
富士のごとき、また浅間のごとき、大いなる山も、目が回っている人間には、ぐらついて見える。動かざる大地も、雲を浮かべた大空も、回って見えるのである。
ゆえに、そうした人間の言うことを信ずる方が愚かである。決してだまされてはならないということを、大聖人は教えてくださっていると拝される。
嫉妬の人間の悪口はつねに自分自身の“悪”と“動揺”を語っているにすぎない。(1990-08-12)