「邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づき親しむべきである」(御書P1340


【御指導】


■『敵は内部だよ。』――戸田先生

■修羅は、内面では、「我尊し」と驕りながら、外面では、徳を備えた人格者のように振る舞う。偽装がうまいのである。
その根本は、自分をよく見せようとする「見栄」であり、他人を見下し、民衆を蔑視する「傲慢」であり、「驕慢」である。
ゆえに、「だれもが成仏できる」と説く法華経を信じることができない。(1999-05-01)

■天魔は、御本仏であられる大聖人にさえ取りつこうとした、その身に入ろうとした。それほどに魔の働きは恐ろしい。
『少しでも信心を怠る心があれば、魔が便乗してくるであろう』(P.1190)との御聖訓のとおりである。
絶対に魔がつけいるスキを与えてはならない。意識し、自覚して“魔を打ち破っていく祈り”がなければならない。どのような高位の人であれ、否、立場が上であればあるほど、信心の戦い、広宣流布の戦いをやめてしまえば、たちまち魔に食い破られしまう。“【まさかあの人が……】”というような人が、醜く変わったとしても、御書に照らせば、決して驚くことではない。恐れる必要もない。御書の正しさの証明なのである。
ゆえに、大事なことは“つくべき正しき依処(えしょ)”を間違えてはならないということである。御書を根本に、常に信心の眼(まなこ)で鋭く正邪を見極めていかねばならない。(1991-08-24)

■第六天の魔王、天子魔は、「他化自在天」ともいうように、他の人に自在にとりつき、自分の意のままに動かし、あやつる。そして修行者の成仏を、ありとあらゆる方法で妨害する。そのことに快楽さえ感ずるのである。それが、仏法でいう「悪魔」の本質である。
仏法破壊の策動には、必ずといってよいほど、カゲで人をあやつり、悪事を起こす天子魔にとらわれたような存在がある。そして多くの人間をあやつり、動かしながら、暗闇でひとりニヤッとしている。そうした卑しい人間がいることを、仏は鋭く見破っていた。(1988-05-28)