ブログ「創価王道」を斬る

<6月2日更新>

■「創価王道」が、5月13日の記事に続き、今日6月2日の記事でも、再度悪書を紹介している。戸田先生と池田先生が、これまで何度となく『悪書を読むな!』と仰ってこられたにも関わらずだ。何の証拠もない邪悪な本を、ネットで平然と紹介するとは、先生と学会、同志の方々への裏切りだ!
《該当記事》
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20100513/p3/
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20100602/

小野(敬称略)の本性を知る立場の一人として、はっきりと言っておくが、本当に信心のある人は、絶対にこのような裏切り行為はしないと始めに断言しておく。
ブログを読む側には、当然様々な境涯の同志の方がいらっしゃる。また、色々な生命の学会員ではない方も見ていることだろう。ましてや、時期が時期でもある。当たり前の配慮を欠いた軽薄な行為だ。

【御書と御指導】
『悪い象などに殺されても、身体を破壊されるだけであり、地獄等には堕ちない。しかし、悪知識に振り回されてしまえば、身も心も、ともに破壊されてしまい、地獄等に堕ちる』(P.7)
「悪知識」の本質について『悪知識というのは、甘い言葉で語り、いつわり、媚び、言葉たくみに愚かな人の心を取って、善心(信心)を破る』(P.7)と喝破されている。
したがって、戸田先生は『この悪知識の中には、悪人は言うまでもなく、悪書も含まれる』と鋭く言われていた。そうした悪書を読んだりしていると、それらにつられて悪の方向へ、地獄の方向へ引っ張られてしまう。(1998-01-18)


■さらに許せないのは、小野がアフィリエイトをしていることだ。この事実は、過去、自分の掲示板上でSさんへの返信にて、『アフィリエイトはしてるよ。』と本人が述べていた通りだ。
純粋な同志の方々に支えられて有名になった自分の立場を利用し、創価の名を冠したブログでお金を稼ぐことは、信心利用であり謗法だ!
卑しい根性の一端が垣間みえる。ましてや、悪書を紹介してまで金儲けをするとは話にならない。論外だ。心の奥底は、純粋な“信”が微塵もなく、損得の“得”(といっても小野なりの下品な得)で動く畜生根性の持ち主である。

【御書と御指導】
・壇那(信徒)を、自分の“食いぶち”としか考えていない。(中略)人を救う慈悲などまったくない。(1991-10-10)

・『千杯ものたくさんの漆(うるし)も、わずかカニの足一つ混じったたけで、性質が変わってしまう』(P.1056)
個人においても、和合僧の組織にあっても、「信心」という一点では、いささかの“濁り”も許されない。わずかでも不純なものがまぎれ込めば、信仰の世界全体が侵され、変質し、やがて堕落してしまうからだ。(1989-10-01)

・謗法があれば、すべての功徳を消してしまう。それは、わずかの青酸カリでたちまち死んでしまうようなものである。(1990-02-20)


■また、(悪書の紹介は)“私には責任はない。読む側の責任だ”と、きっと小野は思うことだろう。以前にも『人の言葉に心を振り回される人はネットをすべきではありません』。と自身がブログで書いている。不特定多数の方々の目に留まるネットで、このような事を言うこと自体、あまりにも配慮に欠ける、無責任な言動だ。
害毒を振りまく小野の方こそ、ネットをすべきではない!と声を大にして叫びたい。

【御書と御指導】
・『魂をなくすほど心配していた』(P.1185)――大聖人は、ご自身のもとを訪ねた門下に対し、その行き帰りが無事故であるよう、これほどまでに心を砕いておられた。「仏子」である信徒の安全を、誰よりも深く願われ、何よりも優先されたのである。(中略)“行き帰りのことは関知しない。責任をもたない”というような冷酷な態度があるならば、それは御本仏のお心に反する。(1991-05-25)


■小野のネット上の全発言そのものが悪書だ!
また、いわゆる小野の説く、教学・信心は、大聖人様と先生のお心に遥かに食い違う我見であり浅知恵だ。小野の全ネット活動に親しみ近づけば、知らず知らずのうちに、同志の方々の尊い「善心」が破れてしまう恐れがある。この事を私は非常に心配している。

【御書と御指導】
・御聖訓には“どんな善人であっても、悪知識に親しみ近づけば、悪に染められてしまう”ことが何度も強調されている。たとえば『どんなに自分は正直に身を律して、世間においても仏法においても賢人の名を得ようと思っていても、悪人に親しみ近づけば、自然と十度のうち、二度、三度と悪人の教えに従うようになり、そうやって最後は悪人になってしまう』(P.1341)とある。
だからこそ「悪知識を捨てよ!善友に近づけ!」と仰せなのである。(1998-01-18)

・『謗法と同座してはならない。与同罪になることを恐れるべきである』(P.1618)

・正邪を見極めるには、強い知力が必要である。知力がないと、ウソを見抜けない。誤るか、また騙されてしまう。書物にせよ、人物にせよ、言っていることが事実なのかどうか、正しいのかどうか、明確に見極め、判断していかねば、道を誤る。(1990-03-09)