問題は、そういう努力が全部、自分の利己心から出ているということ

●名誉会長─慢心は、時に強靭な意志力を発揮するのです。「素晴らしい自分」という幻想の自己像を守るために、すさまじいエネルギーを出すのです。
●斉藤─自分自身の向上に、それだけのエネルギーを注げば素晴らしいのに、「偽りの自分」に執着し、守るためにエネルギーを使ってしまうのですね。
●名誉会長─そこに「修羅」の不幸がある。その心は、いつもおびえている。自分の「本当の姿」が暴かれることを恐れている。
佐渡御書」には『おごれる者は強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し』(P.957)と仰せです。その反対に、「獅子王の心」は何ものも恐れない。自分を守るためではなく、正法を守り、民衆を守るために生きているからです。
●遠藤─『修羅は身長八万四千由旬・四大海の水も膝に過ぎず』(日寛上人の「三重秘伝抄」)と、巨大な姿で説かれています。大海の中に立っても、水が膝くらいまでしかこない。それくらい大きな姿なのですが、これは主観的な自己像であって、実像とは違うということですね。
●須田─確かに慢心している心は、自分を大きいように錯覚します。しかし、帝釈天のような本物の力をもった存在に、慢心を打ち破られると、とたんに池の中の蓮の中に隠れるくらい小さくなってしまう。
●遠藤─風船がしぼんだような姿ですね。
●斉藤─こうして見てくると、阿修羅というのは、非常に多くの現代人を特徴づけているのではないでしょうか。最近話題になった『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著、森英明訳、草思社)で分析されている「邪悪な人」というのは、「修羅界の人」と大変、共通しているように感じるのです。
●遠藤─私も読みましたが、平気でうそをつく「邪悪な人」とは決して特殊な例ではなく、どこにでもいる普通の人の中にいるという趣旨でしたね。
●斉藤─ええ。その特徴は「自分には欠点がないと深く信じこんでいる」。
「完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性とい外見を維持しようと絶えず努める。彼らが心をわずらわせることはまさにこれである」
「彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって『善』とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている」
●須田─なるほど、「下品の善心」で外面を飾るということですね。
●さきほど「我慢」のエネルギーという話がありましたが、こうも書かれています。「邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである」。
「彼らは、ご立派な体面や世間体を獲得し維持するためには人並み以上に努力し、奮闘する傾向がある。地位や威信を得るためであれば、大きな困難にも甘んじ、熱意をもって困難に取り組むことすらある」
●名誉会長─問題は、そういう努力が全部、自分の利己心から出ているということだね。仏法では「心こそ大切」と説く。同じような努力の姿でも、自分を越えた何らかの価値──善や美、多くの人の利益のためなのか、自分のエゴのためなのか。
私どもで言えば、「広宣流布のために自分がある」と心を定めて、自分を捧げきっていくのが信心です。しかし退転者・反逆者は「自分のために創価学会がある」という転倒に陥ってしまっていた。慢心のあまり、同志を尊敬するどころか、学会を利用し、役職を利用し、私を利用して、自分をさも偉く見せようとした。
●斉藤─それを先生に見破られ、多くの人にも嫌われていったのですね。
●須田─それで反省すればよいものを、逆恨みして攻撃を始めた。
●遠藤─その心理もやはり、幻影の自我像を守ろうとするのが要因ではないでしょうか。さきほどの本に、こうあります。
「邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する」「自分自身のなかにある病を破壊すべきであるにもかかわらず、彼らは他人を破壊しようとする」。彼らは「自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する」。
●須田─まさに「自ら省ること能わざる」姿です。だから逆恨みする。
●斉藤─これまで単に、「修羅は勝他の念」と公式的に語りがちでしたが、深い人間学がありますね。人間の自我意識そのものにまつわる宿命的な姿といいますか・・・。
三悪道は環境に埋没している境涯です。しかし修羅は、そこを一歩抜け出て、環境や状況に左右されない自己を、ある意味でもっています。
●須田─それが「三善道」の一つに数えられる理由でしょうね。
●斉藤─しかし、そういう主体的な自我意識をもったとたん、「勝他の念」という煩悩に支配されてしまう。
(『法華経智慧 第四巻』 池田大作)