「信心の眼」を磨き抜け

【御聖訓】
いかに法華経をよむとも法華経のかたきとしろしめすべし、かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ(P.931)
■なぜ大聖人は「法華経の敵を見極めよ!」と厳しく戒められたのか。それは、一切衆生の成仏を説く法華経に仇をなす魔の働きは、人々の幸せを根こそぎ奪うからである。
「敵と申す者は忘れさせて狙ふものなり」(四条金吾殿御返事、1185ページ)等と仰せの通り、広宣流布の真の敵は、悟られないように近寄ってくる。油断や隙があれば、魔の本性を見破り、責めるどころか、知らない間にこちらが食い破られてしまう。
また、「御義口伝」には、“自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが増上慢である”(718ページ、趣意)との妙楽大師の言葉が引かれている。法華経の敵となる増上慢は、自分をよく見せて、世間からも尊敬されているように振る舞うのだ。
「善」と「悪」を厳しく見極めることのない、浅はかな空気に支配された「五濁悪世」の社会では、ともすれば容易に増上慢を生み、増長させてしまう。
そうした風潮に乗じて、広布破壊を企てる仏敵が、必ず出現する。だからこそ信心の利剣を研ぎすまして、広布を阻む魔の蠢道(しゅんどう)を見破ることである。
池田先生は「自らの歴史を晴れ晴れと“勝利”の二字で飾るには、“手抜き”は許されない。小さな油断から、人生に悔恨を残してはならない」と指導された。いかなる時も、敵を忘れず、善悪の本質を見破る「信心の眼(まなこ)」「妙法の眼」を磨き抜いていきたい。
(『御書をひもとく 要文123選』創価学会男子部教学室 編)


12月7日更新