御指導

●反逆者らの“狂い”の根には、必ず「自分は特別だ」という思いがある。(1992-10-22)
●その執着と傲りが、いつか、ゆがんだかたちで噴出する。日蓮大聖人は「開目抄」の中で、こうした退転者の心理を堤婆達多の姿をとおして示しておられる。
『私は、斛飯王(釈尊の父の兄弟)の王子であり、阿難尊者の兄で、釈尊の親類である。どんなに悪いことがあったとしても、こっそりと注意してくれるべきである』(205頁)
彼は、釈尊を妬み、釈尊にとって代わろうと野望を燃やしていたといわれる。そうしたある日、とうとう、釈尊に大衆の面前で厳しく叱られたのである。そのとき彼は、思った。“自分は王の子どもだ。名家の出身だ。阿難尊者の兄でもある。釈尊の親族ではないか。他の人ならともかく、私は特別のはずだ。それなのに、内密に注意してくれればよいところを、皆の前で恥をかかせた”──と。釈尊に感謝するどころか、逆恨みし、反逆を心に誓ったのである。結局、「自分は特別のはずだ」という増上漫であった。
これまで学会に大恩がありながら、反逆していった人間も、肩書や出身、学歴、立場等にとらわれる慢心が必ずあった。ゆえに、叱られたり、自分のわがままが通用せず、自分の思いどおりにいかないと、それを「自分のせいだ」と自覚できないで、「人が悪い」「学会が悪い」と逆恨みしてしまった。そこには、謙虚に法を求める姿勢も、師弟の精神も、まったくない。(同)

●私も今、諸君が必ず正義の凱歌を勝ち取ってくれると信じている。
先ほど、記念のメダルを頂戴した「独立の父」ボニファシオも、悠然と達観していた。すなわち、「我々に対して、エゴイズムと卑しい貪欲の連中が吠えている。しかし、その凶暴な憎悪と調子はずれの喚(わめ)き声は、むしろ、我々が、道理に則って、真実の大道を勝ち進んでいくための刺激である」というのである。その通りである。焼きもちの声なんかに動かされてはならない。
日蓮仏法では、「憎まばにくめ」(1308頁)、「いまだこりず候」(1056頁)と教える。これこそ、創価の「負けじ魂」であると思うが、諸君、どうだろうか!(1998-04-29)

6月6日更新:2