御指導

●“世間をはばからず”──仏法の根本は人情論ではない。目先の感情や利害に流されてはならない。どこまでも正しくして、厳しき「道理」を貫くところに、新しき歴史は開かれる。これこそが正法の勝利である。(1991-03-04)
●(※大聖人は)ご自身が出現されなければ、仏語が虚妄になるところであった、と言いきられている。その大確信に対して、低劣な批判者たちは「大慢の法師」(p.507)であると悪口(あっく)した。こうした誹謗にも、大聖人は「私の言葉は、大慢に似ているように思えるかもしれないが、それは、仏の未来記を助け、如来の言葉が真実であることを顕すためである」(同)と破折されている。
たとえ慢心のように思われたとしても、仏語の真実を証明するためには、言うべきことは断じて語っておかねばならない──大聖人のご胸中には、余人のうかがい知れない、崇高な使命感が脈打っていたと拝される。(1991-08-17)
●「佐渡御書」のあまりにも有名な一節に、「巨大な姿を見せ、おごっていた阿修羅王は、帝釈天に責められると、無熱池にある一つの蓮の実の穴の中に、小さくなって隠れてしまった」(p.957)と。このように、おごれる者は、強敵にあうと、必ず恐れる心が出てくると、日蓮大聖人が教えてくださっているとおりである。(1990-12-09)
●日蓮大聖人は、「謗法の僧を厳しく対治することは罪になるか」との問いを設けられ、「(在家の者等は悪侶を)必ず厳しく対治しなさい。まったく罪などない」(p.85)と経文(涅槃経)を引いて明快に断言されている。「苦治(くじ)」(p.85)すなわち仏敵が苦しむほど厳しく対治してこそ、祈りは叶う。(1992-11-2)

6月15日更新:1