僣聖増上慢

●問題は、僣聖増上慢は、つねに“人権の味方”であり“民衆の味方”という仮面をかぶっていることです。 (『法華経の智慧 第三巻』 以下同)
●第三の僣聖増上慢こそ、もっとも恐ろしい。なぜなら、その正体を見破り難いからである。
今の社会も、いかにも人権や平和のために戦っているようなポーズの人間が多い。それだけに、言葉や、つくられた虚像にまどわされず、本質を見抜く眼が大切になってきます。
●大切なのは「信心」です。正しい信心を教えてくれる人です。信心も修行もなく、権威だけをふりまわす僧侶は、永遠に大聖人の仏法の世界には必要ないのです。
偽善者は、あらゆる手段を使って、自分を高く立派に見せようとする。あの堤婆達多が、まさにそうだった。極端な戒律を唱えて、自分を釈尊以上に高潔に見せようとしたのです。
●私どもは「ありのまま」でいいのです。凡夫そのままの「無作」でいくのです。久遠の凡夫のまま「つくろわず・もとの儘(まま)」(p.759)で自体顕照していけばよい。
本当の仏は飾らない。三十二相八十種好ではない。見栄で飾るのは「僣聖」のすることです。法華経の文底の仏は、凡夫の仏です。本地は仏でも、姿・行動は菩薩です。菩薩仏(ぶつ)です。偉ぶらない。そして民衆の中で、民衆と苦楽をともにしていくのです。

7月31日更新:2