善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う(p.563)

・斧節『「善悪」とは「痛み」を伴って考えるべき問題』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110801/
●故に彼の邪義を隠さんが為に諸国の守護地頭雑人等を相語らいて言く日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏を火に入れ水に流す汝等が大怨敵なりと云云(P.182)
●我慢を発して大乗戒の人を破戒無戒とあなづる、例せば狗犬が師子を吠え猿猴が帝釈をあなづるが如し(P.347)
●真実でないことを、さも真実のようにいいふらす人間(p.1095、通解)
●*遠藤─さきほどの本〈※『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著、森英明訳、草思社)〉に、こうあります。
「邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する」「自分自身のなかにある病を破壊すべきであるにもかかわらず、彼らは他人を破壊しようとする」。彼らは「自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する」。
*須田─まさに「自ら省ること能わざる」姿です。だから逆恨みする。 (『法華経の智慧 第四巻』)

>>このため学会幹部の言動はアジ演説と化している。知性、合理性よりも、いかに扇動できるかが課題になる。(小野)
●僣聖増上慢は自分の「醜い実像」を、そのまま法華経の行者の姿と、“すりかえて”悪口(あっこう)してくるのです。自分の“影”に向かって悪口を言っているようなものだ。 (『法華経の智慧 第三巻』)
●自分の実像がゆがんでいるのに、それを映す明鏡に対して怒っているようなものです(笑い)。「醜い姿じゃないか」と鏡を指さしているわけですが、じつはそれは自分の姿が映っている。 (同)

8月1日更新:1