文証無きは悉(ことごと)く其れ邪の謂(おも)い(p.462)

・斧節『視覚は何のためにあるのか?』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110911/
デタラメを言うな。まるで日顕のインチキ説法もどきを聞いているようだ。

>>「開目抄」と「観心本尊抄」に共通するのは視覚的要素である。(小野)
「我意の浮言ならば之を用ゆ可からず」(p.122)。そもそも“進化生物学的”観点の「視覚」に関する抜き書きをもって、「日蓮が魂」(p.1124)である御本尊御図顕の意義を論ずるなど、畑違いもいいところだ。
●いうまでもなく、それぞれ、(※1)「人本尊開顕」と「法本尊開顕」という重大な意義があります。両著作は、日蓮大聖人が御本尊を顕され、全人類を救済していかれる筋道を明確にする内容となっていますね (『御書の世界 第二巻』池田大作 以下同)
(※1)「開目抄」は、日蓮大聖人こそが末法のすべての人々に対して主師親の三徳を具えた御本仏であられることを開かしているので、人本尊開顕の書とされる。これに対して「観心本尊抄」は、末法のすべての人が信受すべき根本として南無妙法蓮華経の御本尊を説き示されたので、法本尊開顕の書とされる。
●「開目抄」は、大聖人の現実に生きる御姿を示されているのです。私も、仏法の偉大さを知りえたのは、戸田先生にお会いし、具体的に先生のお話と行動に触れて、人間の偉大さを感じたからです。戸田先生の姿を通して、仏法に目を開かされたのです。

>>そしてマンダラはイメージである。木像であろうが画像であろうが本尊はイメージ情報を伝えるものだ。このあたりの研究がまったくなされていない。(小野)
●巧みな名人の後に稚拙(ちせつ)さを知るようなもの(p.1489、通解)
またデタラメだ。「研究」もなにも、御本尊御図顕の大聖人のお心は「深き信心」なくしてわかるはずがないでしょう。だからこそ、様々な書籍で先生が丁寧に教えてくださっておられる通りだ。ここでは『御書の世界 第二巻』から、その一部を引用することにする。
●木像・絵像では、たとえそれが、どんなに芸術的に優れたものであっても、心の一分しか表現できません。心を完全には表現できません。まして、法と一体の仏界の生命を顕すことは不可能です。御本尊が文字で認(したた)められていることについては、甚深(じんじん)の意義がある
●*名誉会長─大聖人は、「木絵二像開眼之事」(p.468)で、仏が具えた主要な特徴である「三十二相」のうち、梵音声(ぼんのんじょう)だけは、色心二法に分けた時、唯一、心法に属するゆえに、木像・絵像では、仏のすべてを表現しきれていない、と指摘されています。心には、時間・空間を越えて無限に広がる豊かさがある。まして仏の心は、絵や彫刻では表現しきれない。
*森中─見えないが厳然として存在する永遠の「法」は、視覚的には表しがたく、文字を使われたということですね。
*名誉会長─また、絵や彫刻などでは、それを拝した時に受け止め方が違ってきてしまう。どうしても目に見える“表現”のほうにとらわれがちで、表現が象徴している“真理”に思いを致すのを妨げることもありがちです。
*斉藤─男性なのか女性なのか、若いのか年配なのか、太っているとかやせているとか、いろいろな差異にこだわってしまう(笑い)。
*名誉会長─絵や彫刻などでは、永遠にして普遍的な法を表現するのは困難です。御本尊が、万人に対して「永遠の法」即「永遠の仏」を顕し、弘めるために、像ではなく文字で表現されたことに深い意義を拝することができる。

>>悟りは側頭葉の反応が顕著であるが、それを導くのはたぶん視覚野なのだ。きっと「見える」こと自体が一つの悟りに近い行為なのだろう。(小野)
●三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり(p.725)
●信の外に解無く解の外に信無し(同)
●今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり信は智慧の種なり(同)
根本的に捉え方が誤っている。視覚的に「見える」から智慧が得られるのではなく「強き信」だ。目が見える人も見えない人も、強き信心で題目を唱える時、大宇宙のリズムと合致して全てを開き変革していくことかできるのだから。
それよりも、大勢の人が見るであろう公の場で、信心も責任感もなくいい加減な事を書き連ねるのをやめてもらいたい!

9月11日更新:2