人師に誤りあらば経に依れと仏は説かれて候(p.1155)

●永遠の生命は認識するものでなく、それを生きるものです。修行が必要なのです。なぜならば、認識しようとしても、そうしようとしている自己自身をも支えているのが「生命」だからです。「波」に「海」をつかむことはできない。「小」で「大」をつかむことはできない。では、どうするのか。
大いなる永遠の生命を、小さな我が身の上に顕現する──湧現する──以外にないのです。そのためには、全存在をかけた自己浄化が必要です。それが仏道修行です。(『法華経智慧 第三巻』 池田大作)
●人間の「心」は、多くの現代人が考えているような、身体や脳の中に“閉じ込められた(局在的な)”存在ではない。そのことは、科学的研究によって解明されつつある。心はもっと広大で、物質的な束縛を超えた広がりを持っているのです。(同)
●「脳」イコール「精神」ではない。脳は精神エネルギーが活動する“場”であり、死によって、活動する“場”を失うだけ。(『青春対話2』〈単行本〉池田大作、以下同)
●「霊」とか「霊魂」とかは存在しない。心身一体のこの生命がそのまま死後も続いていく。「無」でも「有(う)」でもなく「空(くう)」の状態で宇宙に溶けこむ。電波が空中に溶けこんでいるように。
●生命は永遠です。だから死別したと言っても、ちょっと遠くへ行っただけとも言える。外国へ行って、しばらく会えないみたいなものです。
●戸田先生も若いころ、子どもさんを亡くしたのです。こう言われていた。
「私は、年二十三で『ヤスヨ』という子どもを亡くしました。女の子であります。一晩、私は死んだ子を抱いておりました。そのころ、まだ御本尊を拝みませんから、もう悲しくて、抱いて寝ていました。そして別れて、私はいま、五十八歳です。彼女がおれば、当時三歳でありましたから、そうとう立派な婦人になっていることと思いますけれども、今世で(再び)会ったといえるか、いえないか……。それは信心の感得の問題です。私はその子に会っております。今生で会うというのも、それは信心の感得の問題です」
これは、子どもを早く亡くした人への励ましとして話されたのです。「今世で、あの子と、また親子の縁が結べますか」という質問に答えての言葉です。
戸田先生は、娘さんの後、奥さんも亡くされた。子どもや奥さんに先立たれて、苦しみ抜いたが、そうやって、ありとあらゆることで苦しんだからこそ、今、大勢の人を励ませるのだ、大衆のリーダーとして、人の心がわかる人間になれたのだと言っておられた。
全部、意味があるのです。その時は悲しくて、苦しんで、やりきれなくても、負けないで生き抜いていけば、あとから「ああ、こういう意味があったんだ」とわかります。それが信心の力です。また、それが人生の真髄です。
●──「感得の問題」という「感得」とは、自分の生命の実感ということでしょうか。
実感です。生命の問題は、突きつめると実感の問題です。理論や言葉だけではない。
●生命に刻まれた善悪のエネルギーは、死によっても消えない。次の生へも続いて、持ち越していく。「エネルギー不滅の法則(保存の法則)」に似ているかもしれない。そういう「宿業」も、しかし日蓮大聖人の仏法では全部、転換できるのです。

10月5日更新:2