瞑想行で煩悩を断つことはできない

【御聖訓】
●1種の禅師は、(天台自身が明かした、仏法を理解するための10種の心得のうち)ただ観心の1種だけは修行する。その観心も、あるいは浅く、あるいは偽っている。他の9種の心得は全く見られない。(御書228ページ、通解)
●「事相(じそう)の禅師(ぜんじ)」とは、境智(きょうち)ということをなおざりにし、呼吸法などの形ばかりに気をとられている者をいう。これらの座禅は、外道の根本の修行である不完全な瞑想行と同じで、煩悩を断つことはできない。
「1種の禅師は、ただ観心の1種だけは修行する」というのは、これは一応、仮に認めた言い方であり、厳しくいえば、観心の修行も教相(きょうそう)の理解も、ともに欠いているということである。
世間の禅人は、ひたすら真理を観ずることのみを尊び、少しも教えを習おうとしない。(同)

10月6日更新:1