“負けるな!負けるな!”

【新・人間革命 福光三十三】
●菅田歌枝は、鈴村アイが入会すると、同じ文京支部日本橋地区であることから、一緒に活動することも多かった。
菅田は、よく鈴村の面倒をみた。
“福島の地から、自分以上の人材が育ってほしい。鈴村さんには、ぜひ、そうなってほしい”
それが、菅田の願いであった。
●全会員が総力をあげて弘教に取り組むならば、年内には、戸田の願業は成就されることになる。
伸一は、痛感していた。
“この七十五万世帯達成の大闘争に加わるということは、広宣流布の前進に、燦然たる自身の足跡を刻むことになる。子々孫々までも誇り得(う)る歴史となる。その意義は、どれほど大きく、尊いことであろうか……”
そう思うと、一人でも多くの同志を、その戦列に加えたかった。そして、班十世帯の弘教を提案したのだ。
特に、これまで折伏を実らせずにいた人や、新入会の同志などに、弘教の大歓喜の闘争史を創ってほしかったのである。
活動の目標が打ち出されても、幹部など一部のメンバーだけが活動に取り組んでいるのでは、人材も育たなければ、広宣流布の本当の広がりもない。全会員が、共に責任を分かちもち、主体者となって活動の大舞台に踊り出てこそ、新しい活力にあふれた、新しい前進があるのだ。
皆が地湧の菩薩である。皆が尊き使命をもった如来である。その力が十全に発揮される流れを開いていくことこそ、広宣流布のリーダーの大切な要件といえよう。
(聖教新聞 2011-10-10)

【新・人間革命 福光三十四】
一九五七年(昭和三十二年)の六月末、山本伸一は、北海道にいた。夕張で炭鉱労働組合が、学会員を締め出すという暴挙に出たことから、信教の自由と会員の人権を守るために、北の大地を奔走していたのである。
文京支部では、六月二十九日、組長会を開いた。七月の活動への出発の集いである。
ここには、支部長代理の伸一から、電報が届いていた。一班十世帯の弘教達成を呼びかけ、この戦いを「一班一○(いっぱんいちまる)闘争」と名づけることを述べた電報であった。
支部の組長会を受けて、日本橋地区では、島寺丈人地区部長が出席して、福島県小名浜で、浜通り在住の地区員が集い、決起大会が行われた。
会場は、地域で最も早く入会した、雑貨店を営む福本輝代の家であった。
会合の途中、文京支部長の田岡金一から島寺に電話があった。日本橋地区の浜通りの同志に、伸一が伝言を託したのである。
島寺は、感無量の面持ちで、声を震わせながら、その伝言を発表した。
「“一班一○闘争”は、断固、勝利しよう。そして、戸田先生の大誓願である七十五万世帯達成の一大推進力となろう。また、北海道での闘争が終わったら、帰りに、浜通りの磐城に寄らせていただきます」
集った同志は、喜びに沸き返った。
伸一が、磐城に寄ろうとしたのは、炭鉱で働く同志を、力の限り励ましたかったからだ。福島の炭鉱でも、学会員へのいやがらせや、折伏の禁止など、組合による不当な締め付けが行われていたのだ。
彼は、炭鉱で働く福島の同志を思い、“負けるな!負けるな!”と心で叫び続けながら、北海道を駆け巡っていたのである。
「人間がいちど自分の目的を持ったら、貧窮にも屈辱にも、どんなに強い迫害にも負けず、生きられる限り生きてその目的をなしとげることだ、それが人間のもっとも人間らしい生きかただ」(注)──阿武隈の山並みを愛した作家・山本周五郎は綴っている。
(注) 山本周五郎著『天地静大講談社
(聖教新聞 2011-10-12)

10月12日更新:2