かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人(御書1439ページ)

2011年11月10日(木)更新:1

・斧節『あらゆる因果関係の主張は潜在的に呪術である』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111109/
●失とは無明の酒に酔いたる事なり仍(よっ)て本心を失うと云うなり (御書843ページ)

・リンク先、『スピリチュアル学会員に告ぐ』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110702/
>>スピリチュアル系創価学会員は多い。「祈りは必ずかなう」という論法と「この壷を購入すれば幸福になる」との主張は数学的に見れば同じである。(小野)
●多くの現代人にとって、「信じること」なかんずく「信仰」は、理性に反する行為か、少なくとも理性を眠らせる側面をもつと考えられている。
確かに、そういう狂信的宗教が存在することも事実ですが、だからといって、検証もせず「すべての宗教が同じだ」というのは飛躍であり、それこそ理性に反する。根拠無き盲信の類(たぐい)と断じてよいでしょう。
高等宗教は本来、理性をないがしろにしていない。人間の理性を抑圧しながら、人類の普遍的な信頼を勝ち取ることは不可能です。
なかんずく「智慧の宗教」といわれる仏教は、きわめて理性的な宗教です。人間を超越した人格神などを信じないゆえに、西洋的な宗教観からは「仏教は宗教と言えるのか」と疑問を呈する人さえいるほどです。(『法華経智慧 第二巻』池田大作)

>>宗教の原型は確証バイアスであり、相関関係を因果関係と錯覚するところにご利益が生まれる。(小野)
●今の社会の狂いは、全人格的な「智慧」と「知識」とを混同し、全人格的な「信仰」と「盲信」との見わけがつかないところから起こっていると言える。 (『法華経智慧 第二巻』)

>>「ものを考えないように」コントロールされてきた学会員(小野)
●瞋恚(しんに)を生じ心不浄なる者有り悪口罵詈して言く是れ無智の比丘と(御書448ページ)
●「信解(しんげ)」とは、やさしく言えば「心から納得する」ということです。だれもが納得できることが大切です。法華経はそういう信仰を説いている。断じて盲信ではないのです。(『法華経智慧 第二巻』)

>>創価学会と自我を同一化しているため、間違いがあっても絶対に認めようとはしないのだ。本人の知的判断に問題があるのは確かだが、明らかに学会本部がこうした無謬性(むびゅうせい)を喧伝(けんでん)してきた過去がある。特に昭和54年(1979年)以降だ。(小野)
●賢人をば愚王のにくむとはこれなり(御書1467ページ)
崇高な「師弟の精神」というのは、決して「自我の同一化」などではない。ここをはき違えるな。また、邪推で学会を悪口(あっこう)するのを止めよ!!

>>・祈りは絶対にかなう。 ・死後の生命の存在。 ・物語としての因果論。 ここから脱却しない限り、21世紀の宗教たり得ない。これらは既に科学領域で完全に否定されているのだ。(小野)
●経論に文証も無き妄語を吐き法華を顕教と名づけて之を下し之を謗ず豈大謗法に非ずや(御書145ページ)!
●道理証文よりも現証にはすぎず(同1468ページ)

・『御用心の御為に申す(114頁)』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20110604/

・『人師に誤りあらば経に依れと仏は説かれて候(p.1155)』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20110916/

・『勤行・唱題は「義務」ではない。自分の素晴らしい「権利」なのです』
http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20110828/