天魔はこの法を聞くのを憎み、外道は反発し(御書p.201、通解)

2011年11月23日(水)更新:1
・斧節『宮田論文に関する覚え書き 3』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111119/
>>宗教行為における因果は証明することができない。主観であるわけだから当然だ。(小野)
●当来世の悪人は仏説の一乗を聞いて迷惑して信受せず法を破して悪道に堕つ(御書399ページ)
●因果は、成仏の因果──仏になれるか否か──に関わるから大切なのです。(『法華経智慧 第一巻』池田大作)

・リンク先、斧節『科学者は、体験談を証拠とはみなさない』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20100311/
●経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよ(御書482ページ)

>>ちょっと考えればわかることだが、体験=現証であれば、いかがわしい健康食品も高価な壷を購入させられる宗教も正しいことになってしまう。「嘘も方便」とはよくいったもので、大乗仏教の効用主義(プラグマティズム)を顕著に示している。(小野)
●臆病物をぼへず・欲深く疑い多き者(御書1191ページ)
●一切は現証には如(し)かず(同1279ページ)
・『かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人(御書1439ページ)』 http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20120102/

>>しかし実際問題として因果は物語とならざるを得ない。その帰結として牧口先生は罰論を振りかざしたのだろう。(小野)
的外れな論を展開したあげく、牧口先生を、あたかも無慈悲な指導者であるかのように言う愚行を止めよ!
●愚癡と無明に覆われた衆生は、自らの住む家が火宅となって燃え盛っていることに気づかないばかりか、自身の命に仏の生命が具わることにも、まったく気づいていない。(『法華経智慧 第二巻』池田大作)
●境涯が高まれば智慧が生まれます。だから弟子たちも譬喩を説けたのです。また、釈尊が譬喩を用いたのは、あくまでも一切衆生のためです。一切衆生仏道を開くためです。その譬喩の心、譬喩に込められた仏の心がわかったがゆえに、弟子たちも、譬喩をもって応えたのではないだろうか。「わかった」という喜びが、「伝えずにはおられない」という心を弟子たちにもたらしたのです。(同)
●信がなければ、仏の心を顕そうとした法華経は永久にわかりません。(同)
●現実生活を離れた理論のなかに仏法の深い真髄があるかのように錯覚しがちですが、足下の現実こそが仏法であるということを、法華経の譬喩は教えてくれている。(同)
●生活の上に現れる信心の実証は、妙法の功力(くりき)を説明する「譬喩」です。現実生活の実証は、妙法の真理を雄弁に物語っているのです。(同)
●私たち一人一人の勝利の体験が、多くの人に勇気と希望を与える。すなわち、その体験は、妙法の力を表す譬喩(ひゆ)となっているのです。人々が、その「一人の勝利のドラマ」を、さらに多くの人に語っていくこともできます。
牧口先生は、体験発表を中心とする座談会運動を創られた。難解な「理論」を表にして説くのではなく、わかりやすい「体験」を表として、妙法を人々に教えられた。
個別の体験は普遍の妙法の「譬喩」です。体験中心の座談会は現代の「譬喩品」であり、現代の「七譬(しちひ)」であり、「無量の譬喩」です。
慈悲と智慧の結晶である「譬喩」──法華経と同じ心に立って、創価学会は“布教革命”を巻き起こしたのです。
法華経の譬喩の心は、創価学会の六十五年の歴史の中に生きています。私たちは、末法万年にわたって語りつがれるであろう「法華経広宣流布」の物語を日々、馥郁(ふくいく)と綴っているのです。(同)

>>ここは厳密な検証が求められるところだ。現在の学会員が説くような単純な罰論であれば、他人の不幸を望むような心理状況に陥る。(小野)
●(※罰は)あたるのではない。でるのです。罰というのは、その人の生命状態が生活に現れるのですから「罰をあててやるぞ」などというものではありません。─戸田先生

>>これは鋭い卓見である。牧口先生が「思考の限界」を見極めていたことを窺わせる。(小野)
>>「仏法は他の学問を包容する全体で、その他の学問は部分として包摂される」という文章なのだろう。これについては、強く主張する必要はないと思う。仏法は仏法、学問は学問でいい。そうでないと教義の体系化、構造化が主目的になってしまうからだ。(小野)
●信用す可からざる者(御書148ページ)
●父母をさげすんでいるようなもので、仏と経を見下している(同215ページ、通解)
●道理をよこしまに曲げて我をとおす者(同1095ページ、通解)

>>宗教が淘汰されることなく現代にまで受け継がれているのは、コミュニティの団結を強め、ルールを破る行為に対するブレーキと化したと考えられる。つまり、宗教を持たない集団よりも、宗教を持った集団の方が、戦争に強かったと想定することが可能だ。(中略)私は、本能に基づいた文化である宗教に全く新しい生命を吹き込んだのがブッダであったと考えている。善=公益であれば、社会や時代の変遷に伴って善の価値も変化することだろう。(小野)
●外には賢人・善人の姿を表し、内には貪りや嫉妬の気持ちをいだき(御書225ページ、通解)
●牧口先生は「創価教育学大系」で、この哲学は「立憲政体の本義」にも通じると論じておられる。専制政治の時代には、「法」よりも「人」によって治められる。正邪や善悪よりも、権力者の勝手放題の感情や意志が、まかり通ってしまう。社会が進歩するにしたがって、憲法という「法」による政治が確立していく。
同じように宗教でも、永遠に変わらない宇宙根本の「大法」が生きる規範となっていく。これが牧口先生の歴史観であった。縁に触れて変化する人の「心」を基準にするのは危ない。仏法も社会も、あくまで「法」を根本として進むべきである。(御指導、2000-05-24)

>>戦前の創価学会が明確に反戦を訴えることがなかったのも、これが理由だと思われてならない。(小野)
●大妄語なり(御書113ページ)!
●自らの父親を知らず、鳥や獣と同じ(同215ページ、通解)
●仏がこの世に出現されたのは、ひとえに生きとし生けるものを救うためである(同183ページ、通解)
SGIの運動に世界も期待しています。特に戦時中にあって、牧口先生と戸田先生が軍部政府と対峙し、獄中闘争を貫かれた歴史に、SGI平和運動の原点があると注目しています。(「記念座談会 魂の独立から20年」聖教新聞 2011-11-21)