僣聖増上慢を明かす!

2011年11月23日(水)更新:2
・斧節『宮田論文に関する覚え書き 4』
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111120/
>>創価学会もかっては日蓮正宗の影響もあり、教義的な問題にこだわっていた時期があったが、日蓮正宗と分離してからは、その教義がどのように変更されたのかはそれほど問題にされることもない。(宮田氏)
●諸宗の学者は、近くは、自宗の仏がいかなる意味のうえに説かれたかを知らず、遠くは法華経の寿量品において明かされた久遠の仏を知らないがゆえに、水面に映った月影を、本物の月と思い込んでいるのと同じ愚かな誤りを犯している (御書198ページ、趣旨)
●一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり(同189ページ)

>>かつて戸田先生は哲学についてこう語った。(小野)
●父母をさげすんでいるようなもので、仏と経を見下している(御書215ページ、通解)

>>つまり創価学会にプリンシプルとしての教義は存在しないということだ。私は最近になって気づいた。(小野)
>>創価学会日蓮正宗の間で二度にわたる紛争があったが、この際教義に変更があったと考えていいだろう。(小野)
●このような経文の解釈法は、偽りの中の偽りである。あまりに浅すぎて、論ずることもできない (御書229ページ、通解)

>>それまで功徳があるとされた登山や寺院参詣、塔婆供養の類いは否定されたのだから。最も大きかったのは法主の宗教的ポジションである。それこそ我々は法主を「永遠の指導者」のように思い込んでいた。御本尊を書写する人だから当然仏だわな、と錯覚していた。(小野)
『究極のところを見ないとは、かの一闡堤の輩がつくる究極の悪業、すなわち法華経誹謗が底しれず深くて見えないことである』(御書229ページ、通解)。 お前は、まさに次の御文にある通りの卑劣な人間だな。 『第三類の僣聖増上慢は、最も悪質である。第一類より第二類、第二類より第三類というように、ますますその謗法がわかりにくい』(同)
極悪坊主の実態を引き合いにだし、陰険かつ巧妙な手法で「永遠の指導者」であられる極善の師匠を、あたかも坊主と同じであるかのように貶めようと目論む醜い嫉妬の輩め!お前は、経文に寸分違わない“ネット社会の僣聖増上慢”だ!
●正邪は厳然です。どちらが宗祖の御精神を継承した仏意仏勅の教団なのか、一目瞭然じゃないか。 (「記念座談会 魂の独立から20年」聖教新聞 2011-11-21)
●学会の正義、池田先生の偉大さが示された20年です。学会は池田先生のもと完全勝利しました!(同)
●中国思想研究の大家(たいか)であるハーバード大学のドゥ・ウェイミン博士も、「牧口会長から戸田会長、池田会長に至る三代の系譜にこそ、大乗仏教の本来の精神が脈動していることを、改めて感じます。反対に、偏狭で保身の僧らに見られる、世俗主義と権力への服従は、大乗仏教の核心である人間主義を深刻に害したといえます」と強調しておられます。(同)

>>最初の紛争が収まった後、宗門の伝統的な教学の影響を受けた人物はことごとく排除された。(小野)
●事実というなら、証人・証拠を出してみよ(御書181ページ、趣旨)!

>>1992年、公明党PKO法案に賛成。更にイラク戦争では自衛隊イラク派遣に賛成した。(小野)
●この人は悪心をいだき、常に世俗のことを思い、人々の中で法華経を実践する行者の欠点を好んで言いだす(御書224ページ、通解)
・『公明党 赤松正雄』 http://www1.r3.rosenet.jp/nb3hoshu/NichibeiAnpo20050505Akamatu.html

>>原理・原則がないことは一目瞭然だ。宗教的な価値観が正統性ではなく所属で決まるようになってしまった。(小野)
●「阿羅漢に似た一闡堤がある」というのは、その者たちが大乗経を謗(そし)るということである(御書229ページ、通解)

>>矢野本を紹介したのも同じ理由からだ。(小野)
●魔の伴侶なり(御書224ページ)!
●出家者のところに一切の悪人が集まる(同228ページ、通解)
●大悪に迎合し大善を怨嫉する罪悪は重大─牧口先生
●有能な人物を妬み、デマを撒き散らして陥れ、なき者にする。これが恩知らずの悪党の変わらぬ手口である。こうした愚行が、歴史上、どれほど繰り返されてきたことか。(御指導、2008-09-30)!
●元政治家・矢野絢也が転落した軌跡はあまりに明白である。おおいなる理想を胸に抱き、大きな期待を背負って国会議事堂に乗り込んだのはいいものの、腐敗した与党政治家集団の刷新・浄化に成果をあげるどころか、早い時期にその中に“取り込まれて”しまった。その帰結が、1988・89年前後の一連の公明党の大不祥事であり、矢野自身の明電工疑惑であった。政治家に影響力を及ぼしたいと考える実業家からワイロ同然の株券を得ていた不明朗な金銭スキャンダル事件であり、党委員長の矢野自身がそうした行為に直接的に関わっていたことが判明し、世間を愕然とさせた事件である。
 矢野絢也は当然ながら責任をとらされ、党委員長職をクビになり、政治家をやがて引退した。だが、上記のような“挫折”を味わった矢野本人は、まじめに反省することはなく、既存の政治家集団と同じく、麹町に事務所を開設するなどして、政治家気取りの生活をつづけた。政治評論家として、政治の浄化とはおよそ関係のない私利私欲ぶりを継続し、恥の上塗りを重ねた。現在は、過去の自身の不祥事を覆い隠そうとするかのように、教団側にすべてを責任転嫁し、教団攻撃に躍起となっている。
 矢野は自身で細かく記載してきたという国会手帳をもとに、自身がいかに「転落の軌跡」を歩んだのか、さらに今後の公明党議員のためにどのように心がけたらミイラとりがミイラにならずに済むのか、自身の体験をもとに赤裸々に記述すべきであろう。それが同人にとっての≪唯一の罪ほろぼし≫ともいえる行為であり、後世に価値を生む行為ともいえよう。だが現状は正反対だ。教団にすべての責任をなすりつけるための「告発」と称する活動に躍起となっており、本質的な意味での自己の≪内省の視点≫は微塵も感じられない。
 ひとりの政治家としての矢野絢也を俯瞰して見てみると、その行動と動機は驚くほどに「単純」である。例えていえば、犯罪者が自己の犯罪を必死で隠そうとする苦しまぎれの行為にそっくりだ。思惑だらけの行動をもっともらしい言葉でいかに隠そうとしたところで、その背景にあるものは明瞭に浮き彫りになってくる。
 矢野が書くべきは、自分自身の「懺悔録」なのだ。結局はひとりの人間として、あるいはひとりの政治家として、何の反省もないということだ。「開き直り」の人生そのものといってよい。 (柳原滋雄コラム日記 2011/11/23(Wed) 『堕ちた元委員長 125 矢野絢也が残すべき「本当の懺悔録」』)

・リンク先、斧節『創価大学法学部の諸君へ』 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110919/
・香風『嗚呼おろかなり・おろかなり(p.476)』 http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20110813/

>>ちなみに地裁は公明党OBの勝訴で、高裁において逆転敗訴している。(小野)
●大聖人が法華経のゆえに御勘気をこうむっていることを、天台・真言の法師等が喜んでいるのは、まことに恥知らずなことであり、常軌を逸している(同237ページ、趣旨)!
●仏法の賞罰は、まことに厳しい。たとえ、かりに世法や正法を欺き、その追及から逃れることができても、仏法律だけは、だれ人もごまかすことはできない。(御指導、1988-05-22)

>>著作を読む限りでは明らかに創価学会側に問題がある。創価大学法学部に法の精神があるならば創価学会を糾弾するのが当然だ。(小野)
●『仏法の味方のように見せかけて、仏法を滅ぼす僧侶を保護し、正法の行者を迫害している』(御書313ページ、通解)
邪智の輩は、自らの信仰が脅かされるように感じ、あらゆる手段を用いて法華経の意義をおとしめようとする。その際、あたかも“聖者”を装いながら、権力者を利用し、法華経の行者の弾圧を図るのだ。それはまさに、法華経勧持品第13に説かれる、「僣聖増上慢」の姿と一致する。
たとえば、極楽寺良観は見せかけの慈善事業で民衆を欺く一方、謀略を用いて大聖人を亡き者にしようとした。( 「報恩抄に学ぶ 5」 聖教新聞 2010-06-12)
●昔、像法時代の末には、護命や修円ら(法相宗の僧)が奏状(そうじょう)を朝廷にささげて、伝教大師を無実の罪で訴えた。
今、末法のはじめには、良観や念阿らが偽書をつくって、将軍家にささげている。これこそ三類の怨敵ではないだろうか(御書229ページ、通解)!!!!

>>原理・原則も哲学もない集団となれば、単なる利益共有団体でしかない。(小野)
●良観ら自身でやった罪を日蓮にかぶせるのか(御書181ページ、趣旨)!!
●御書に「賢人をば愚王のにくむとはこれなり」(1467ページ)と。人のために尽くしても、賢人は悪意の者から憎まれる。善意の行動も、権力欲の目には権力を得るための策に、名聞の者には売名行為と映るからだ (「名字の言」聖教新聞 2011-11-08)
●形は戒律をたもっているように見せかけて、少しばかり経文を読み、食べ物をむさぼって我が身を養っている。
その僧は、袈裟(けさ)を身にまとっているけれども、信徒の布施を狙うありさまは、漁師が獲物を狙って、細めに見て静かに近づいていくようであり、ネコがネズミをとらえようとしているようなものである。
そして、常に「自分は羅漢の悟りを得た」と言うであろう。
外面は賢人・善人のように装っているが、内面は信徒の布施をむさぼり、正法をたもつ人に嫉妬心を強くいだいている。
法門のことなど質問されても、答えられないありさまは、ちょうど唖法(あほう)の修行で黙り込んでいる婆羅門たちのようである。
実際には、正しい僧侶でもないのに、僧侶の姿をしており、邪見が非常に盛んで、正法を謗る(御書227ページ、通解)
●こう言われたからといって、人をうらんではならない。眼(まなこ)があるなら、経文に我が身をあわせてみよ(同228ページ、通解)!!