祈り続ければ必ず幸福に!

2011年11月29日(火)更新:3
【未来部と共に学ぶ 名誉会長 希望の語らい 15 】
[質問]勤行しても、なかなか願いが叶いません。
〈仏法は道理。信心即生活。現実の努力が花開く〉
「祈りとして叶わざるなし」の信心です。しかし、祈ってすぐに叶うのは“手品の信仰”だ。「明日、宝くじに当たりたい」「明日のテストで百点を取りたい」と祈って、簡単にそうなるものではない。
仏法は道理であり、信仰即生活です。信心即現実だ。現実のうえで、努力もしないで、安易に願いが叶うわけがない。
また、信心の度合いも一人一人違いがあるし、もっている宿命も一人一人違う。しかし、祈っていくことによって、必ず「よい方向へ」「よい方向へ」と、本格的な希望が開けていくことは間違いないのです。

御本尊の功徳には「顕益(けんやく)」と「冥益(みょうやく)」がある。
「顕益」というのは、病気とか、人間関係とか、何か問題が起こった時に厳然と守られ、すみやかに解決できる利益(りやく)です。
「冥益」とは、木がゆっくりと育つように、また海の水が満ちていくように、次第に福運を積み、豊かな大境涯を築いていく。毎日、見ていても変わっていないようで、何年間か長い目で見た場合には、厳然と幸福になっている。成長している。それが「冥益」です。
「顕」とは、はっきり目に見えるということ。「冥」とは、なかなか目には見えないことを意味する。

何があっても「祈り続ける」ことです。そうすれば、必ず幸福になる。
その時は、自分が思っているような解決をしなくても、もっと深いところ、あとから考えると、「いちばんよかった」という方向になっていたことがわかるものです。これがすばらしい「冥益」です。
たとえば、「きょう腹いっぱい食べて、一生、飢えて暮らす」よりも、「今すぐには腹いっぱい食べられなくても、一生涯、悠々と食べていける」人生のほうが、はるかによい。日蓮大聖人の仏法は、そのようなものです。

やった分だけ自分が得をするのです。もちろん、信仰をしなくても、生きていくことはできるでしょう。しかし、自分ではどうしようもない宿命もある。生命の弱さに振り回される場合もある。そういう自分を変えて、“ああ、私の人生はすばらしかった”と心から言えるようにならなければ損です。

戸田先生は言われた。
「われわれは何のために生まれてきたのか。それは『衆生所遊楽(衆生が遊楽する所)』と法華経にあるように、遊びに来たのである。だから、人生を楽しまなければ、つまらないではないか。御本尊を信じきった時に、生きていること自体が楽しい、何をやっても楽しいという人生になるのである」と。
生きていること自体が楽しい──こういう境涯を「絶対的幸福」と言います。信仰を貫き通せば、必ずそうなっていくのです。 〈『青春対話1』から〉

《私の体験》
中学2年の春、突然、目に激痛が走り、病院へ。医師から「失明する可能性もある」と告げられました。
学校を休み、大好きな合唱団にも行けず、「なぜ、私だけが……」と泣くばかり。そんな私に学会の先輩が、「順ちゃん、お題目で治そう!」と励ましてくれました。
無我夢中で、時間を忘れるほど、ひたすら唱題。自然と勇気が湧き、いつしか「絶対に治してみせる!!」と誓いの祈りになっていました。
治療も功を奏し、痛みは消えて完治。医師も驚嘆するほどの奇跡的な回復でした。
その後、合唱団に復帰。ある会合の出演で、思いがけず池田先生と勤行をすることになり、こみあげる感動と感謝で、涙を浮かべながら祈ったことを覚えています。
祈りは絶対に叶う。この大確信を胸に、宝の未来部と共に大前進してまいります。 (聖教新聞 2011-11-29)