堕ちた元委員長 130 龍年光と矢野絢也

2011年12月16日(金)更新:2
柳原滋雄コラム日記 2011/12/16(Fri) 堕ちた元委員長 130 龍年光矢野絢也
 創価学会が初めて政界に人材を送ったのは、1955(昭和30)年の地方選挙を嚆矢とする。このとき品川区議会議員になった人物に龍年光(1921―2007)がいる。1961(昭和36)年11月に発足した公明党の前身組織、公明政治連盟では書記長に就任した古参幹部の一人で、その後、都議会議員として活動した。
 公政連としては1962(昭和37)年の参院選挙が“初陣”となり、翌63(昭和38)年の地方選挙へとつづいた。この年の大阪府議選で府議会議員となった矢野絢也(1932−)は、龍のずっと後輩にあたる。
 ところが、67(昭和42)年に公明党衆院進出し、衆院から竹入委員長、矢野書記長が誕生すると、そうした党内の序列は大きく崩れた。
 もともと龍は、教団時代にもその行動を問題視され、戸田第2代会長のもとで包容され育成されてきたことは、『人間革命』12巻などにも詳しく書かれている。戸田会長の率直な言葉をそのまま引用すると――。
 「これから龍たちが政界に出てゆくが、私は心配でしかたないのだ。政界というのは権力と野望と駆け引きの魑魅魍魎の世界だ。皆、いまは新しい気持ちで張り切っているが、下手をすれば、すぐに精神が毒され、私利私欲に狂ってしまう者が出ないともかぎらないだろう。私の心を忘れぬ者は、政治革新を成し遂げ、民衆のための偉大なる政治家に育つだろうが、私利私欲に狂えば、広布を破壊する魔の働きになってしまうだろう。政界へお進出は、私にとっても、学会にとっても、大きな賭けなのだ。私は獅子がわが子を谷底に突き落とす思いで、弟子たちを政界に送り出そうとしているのだ」
 龍は都議時代から私利私欲に狂い、85年に議員引退後、公然と党や支援団体に弓を引いた。
 一方の矢野絢也も行動として変わるところはなく、衆院議員時代から不動産やサイドビジネスに手を出し、明電工事件という大きな金銭スキャンダル事件を惹起した。「民衆のための偉大なる政治家」に育つことを期待されていたはずの人間は、あべこべに「すぐに精神が毒され、私利私欲に狂ってしまう」結果となった。いまは龍と同じく、党や支援団体を攻撃し、自己弁護のみに懸命な姿をさらしている。
 龍年光矢野絢也。政治家になるまでの道のりは異なったものの、人生の結果はまったく同じだった。