妙法の大功力を現すのは「信心の二字」

2011年12月17日(土)更新:5
・斧節『宮田論文に関する覚え書き 10』 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111212/
>>教法を伝え聞いて悟りを開くことができるのであれば、悟りの内容は知識となる。そんなことがあるものか。(中略)実際に教法が存在するのは武道や職人の世界である。(小野さん)
●*斉藤─どんな修行でも、はじめから師匠を疑っていたのでは、修行になりません。
 牧口先生は、こう言われています。
 「生活は、すべて最初は模倣である。他人が行っていることを見よう見まねで信じて生活をするのである。同様にお華でも、踊りでも、剣道でも、柔道でも、師匠のいうとおり信じて模倣するのであり、その上に立って模倣から創造に進むのである。それが生活法である」と。
*遠藤─うまれたばかりの赤ちゃんが、親の言うことも、まったく信じないで(笑い)、ミルクも毒ではないかと疑い(爆笑)、水を飲むのを拒否する(笑い)──それでは生きることすらできません。「生きる」ということは、何らかのものを「信じる」ところから出発するわけです。(『法華経智慧 第二巻』池田大作
 仏法の真髄は「師弟不二」の“実践”です。師匠の教え通りに実践し、願いが叶うまで「祈り切る」。この“勇気”が必要です。挑戦する前から“自分には無理だ”と諦める弱さに打ち勝つ勇気。この勇気を奮い起こして御本尊に向かうのです。題目で自身に立ち向かう勇気の一歩を!
・香風『「勇気」で人生を開く』 http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20120518/

>>仏典にある「秘密」とは常識の範疇を超えること(難信難解)に重きを置いたもので、「隠す」義があったとは考えにくい(小野さん)
 その解釈は誤っています。
仏道修行とは、仏の覚(さと)った道を辿ることです。また、覚った仏が歩んだ道を歩むことであり、さらには仏が思い描いたであろう道を開いていくことです。「信」をもって歩めば、誰でも仏になれる。仏としての振る舞いで人々を支え守り導いていける。(「勝利の経典「御書」に学ぶ 日女御前御返事」 聖教新聞 2011-12-13)

>>創価学会のいうところの「宗教体験」とは何か?(小野さん)
 「人間革命」「境涯革命」であり、また、「顕益」「冥益」です。特に、目に見えない冥益は、自身の一生成仏、さらには三世にわたっての崩れざる幸福境涯を決定づけるので大切なのです。その為にも題目で生命を浄化(磨く)し、自他共に仏道修行をするのです。

>>よい学校、よい会社、よい人との結婚が功徳だ。ここにおける「よい」とは他人や過去との比較から判断がなされる。(小野さん)
 「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮(びんぐ)の人日夜に隣の財(たから)を計(かぞ)へたれども半銭の得分もなきが如し」(御書383ページ)。
 「自分自身に生きる」ことが大切です。確固たる自分を築くために題目を唱えると共に、広宣流布に生きることです。

>>私たちは試験に受かり、仕事を得て、結婚し、子供が生まれ、それからますます機械のようになってゆくのです。(クリシュナムルティ
●出た学校によって、自分の一生が、すべて決まるわけではない。
 むしろ、自分が「どのように生きるか」という強さ、深さが大事です。その強さ、深さの分だけ、満足と充実の人生を生きていけるものです。(中略)
 「出身校で決まる」のではない。「自分という人間」で決まる。有名校に行ったから幸福か。そうは絶対に言えない。
 また、いわゆる二流、三流校に行ったから敗北者か。そんなことは絶対に言えない。小学校を出ただけで偉くなった人は、いっぱいいる。
 要するに、「自分への挑戦」に勝った人が勝利者であり、幸福になれるのです。これが根本です。(『青春対話2』池田大作

・リンク先、斧節『教育の機能 2』 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20100111/
●哲学を学ばず、目先しか見ていない。欲望のままに貪る「餓鬼」の心、強い者にはへつらい、弱い者はいじめる「畜生」の心──その悪根性でできあがった社会であるから、人を差別する心、人権を無視する社会ができてしまった。
 大事なのは「人間として」生きることです。(『青春対話1』池田大作

・リンク先、古本屋の覚え書き『比較が分断を生む/「学校への手紙」J・クリシュナムルティhttp://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100111/
●当時も、また現在も、“人間自身は卑小な存在であり、偉大なる永遠の価値は自分の外にある”という考え方が根強くあります。
 大聖人は、この固定観念を打ち破り、何か超越的な力にすがるのではなく、幸福を開く根本法が万人の胸中に内在することを示し、自身の本来の偉大さに目覚めていくべきであると教えられているのです。 (「勝利の経典「御書」に学ぶ 日女御前御返事」 聖教新聞 2011-12-13)

>>聖教新聞に掲載されているのは社会での成功体験に限られている。(小野さん)
 いえ、千差万別、様々な体験が載っています。一例を紹介します。
・香風『私らしく!!人を信じる喜びを知った』 http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20120519
 また、次の体験は、「金銭に執着する迷妄の命を断ち切った」からこそ、目に見える功徳となって3階建ての自宅を新築できたんです。題目の利剣で「命を革命」できた。ここが素晴らしい体験なんです。功徳はその結果として後からついてくるものなんです。これが創価の信仰の力なんです!
・香風『金銭に執着していた自身の迷妄を猛省』 http://d.hatena.ne.jp/yoshie-blog/20120520
 最後に、11月17日付新聞の体験談『師をもつ人は強い! 同志の励ましで荒れた生活から再起』の身読もお勧めします。もし、何らかの事情で読めない場合は言ってきてください。私のブログで全文アップします。

>>成功を望んだ時点で社会の奴隷になっている(小野さん)
●人格は、お金とは違う次元の、いちばん重要な問題です。
 物質的な幸福を追うだけでは、本当の平和はない。二十一世紀は、どうしても「人権の世紀」にしなくてはならない。目先の利害にとらわれない社会にしなくてはならない。
 それには、まず自分が自分を大切にし、誇りをもって毅然と生きることです。その人が、他の人も大切にできるのです。(『青春対話1』池田大作

>>創価学会の宗教体験はプラグマティズムに傾きすぎて、宗教の名に値しないと私は考える。その実体は欲望充足であり、学会総体としての欲望は政治的志向とならざるを得ない(小野さん)
 それは信仰の真髄・学会の真実の姿を知らない浅薄な批判です!
●病苦と経済苦に疲れきった人。人間関係に押しつぶされ、人生に絶望した人。家族がバラバラで、すさんだ心の荒野をさまよう人。
 光の当たらない、あらゆる苦悩をかかえた民衆に手を差し伸べ、ともに同苦し、ともに立ち上がってきたのが創価学会です。
 諸君のお父さん、お母さんは、そういう「人間のための闘争」に生きてきた。名誉もいらない、地位もいらない、ただ「人間として」人間愛に生きぬいた。
 泥沼のような醜い社会の中で、一筋に大いなる理想に生きぬいてこられた。最高に尊い方々なのです。(『青春対話1』)