本当の幸福は「心の財」を積んでいくなかにこそある

2011年12月17日(土)更新:6
【新・人間革命 共戦 三十】
 山本伸一は、決意を促すように、草創の同志を見つめながら、話を続けた。
 「日蓮大聖人は、『須(すべから)く心を一(いつ)にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧(すすめ)んのみこそ今生(こんじょう)人界の思出(おもいで)なるべき』(御書四六七ページ)と言われています。つまり、一心に唱題と折伏に励み抜いていくことこそ、人間として生まれてきた、今世の最高の思い出となると、御断言になっているんです。
 私たちは、人間として生まれたからこそ、題目を唱え、人に仏法を語ることができる。
 一生成仏の千載一遇のチャンスを得たということです。ゆえに、地涌の菩薩として、今世の使命を果たし抜いていくんです」
 皆、真剣な眼差しで、伸一を見ていた。彼の声に、ますます力がこもった。
 「第二に、人生の総仕上げとは、それぞれが、幸福の実証を示していく時であるということです。“私は最高に幸せだ。こんなに楽しい、すばらしい人生はない”と、胸を張って言える日々を送っていただきたいんです。
 しかし、それは、大豪邸に住み、高級料理を食べ、贅沢な暮らしをするということではありません。欲望を満たすことによって得られる『欲楽』の幸福というのは、束の間にすぎない。相対的幸福だからです。
 たとえば、念願叶って、百坪の家を手に入れたとします。しかし、『欲楽』ばかりを追い求めていれば、千坪、二千坪の大邸宅を見ると、欲しいと思うようになるでしょう。そして、それが手に入らないと、かえって、不満や不幸を感じることになってしまう」
 信心の功徳を実感するうえでも、信仰の一つの実証としても、「蔵の財(たから)」「身の財」は大事である。
 しかし、財産は使えばなくなるし、災害などで一夜にして失ってしまう場合もある。また、優れた体力も、高齢になれば衰えていかざるを得ない。
 本当の幸福は、時代の激変にも、時の流れにも左右されることのない、「心の財」を積んでいくなかにこそあるのだ。 (聖教新聞 2011-12-17)