宗教は生き方の土台ゆえに人間の振る舞いのなかに教えの真価が表れる

2011年12月24日(土)更新:6
【新・人間革命 共戦 三十六】
 フランシスコ・ザビエルは、一五〇六年に現在のスペインに生まれ、パリ大学の聖バルバラ学院に学んだ。二十八歳の時、イグナティウス・デ・ロヨラらと、モンマルトルの聖堂で、神に生涯を捧げる誓願を立てる。
 ザビエルは、このロヨラらと、修道会「イエズス会」の創立に加わる。正式に教皇の認可を得た「イエズス会」は、ポルトガル王の要請を受け、インドに、ザビエルらを派遣。海を越え、彼の宣教の旅が始まるのだ。
 ザビエルは、マレー半島のマラッカで、後に日本人信徒となるアンジロウと知り合い、日本宣教の重要性を痛感する。そして、日本をめざし、一五四九年、薩摩半島に上陸。ここで、懸命に日本語を学んでいる。
 ザビエルは薩摩で、仏僧の自堕落な生活に驚きを覚える。書簡には、「坊さんよりも、世間の人の方が、正しい生活をしている。それでいて、相変らず坊さんが尊敬されているのは、驚くべきことだ」(注)とある。
 彼は、仏僧の腐敗から、形骸化した仏教の欺瞞と没落を感じ取ったにちがいない。宗教は生き方の土台となる。ゆえに、人間の振る舞いのなかに、教えの真価が表れるのだ。
 薩摩でザビエルは、守護大名島津貴久に会い、宣教の許可を得る。しかし、仏僧の激しい反対に遭い、結局、宣教の道は閉ざされることになる。
 彼は、平戸に赴き、ここで宣教の許可を得た。さらに、日本の国王である天皇に謁見(えっけん)し、宣教の許可を得ようと、京の都をめざした。そして、その途次、山口に滞在する。一五五〇年十一月のことである。
 山口では、許可を得ぬままに、伝道を開始した。一日二回、街頭に立ち、教えを説いていった。熱心に話を聴き、信仰を志そうとする人もいた。だが、嘲笑され、罵詈されることも多かった。
 ザビエルの噂は広がり、守護大名大内義隆が彼らを引見した。ザビエルは、誇らかに神の教えを語るが、大内義隆の反応は、決して好ましいものとはいえなかった。
※引用文献  注 『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄(下)』ペトロ・アルーペ、井上郁二訳、岩波書店=現代表記に改めた。  (聖教新聞 2011-12-24)